2015年1月23日金曜日

今はイスラム国「あの『シリア旅』」一挙掲載!

1998年tanakabucho一家のシリア旅行。
何だかんだ言ってもあの頃は行けた。
今はイスラム国、行く=死にに行くことだ。

ウンヨウBlogに2011年1月から2012年にかけて連載した「あの『シリア旅』」を、若干の加筆修正(てにをはを整えるのみ)で一挙掲載!
後半になってシリア内戦に触れているが、書き始めた頃はまだ戦禍は無かったらしい。当時ヒトが殺される国はイラクだった。
かように、シリアはあっという間に壊れたのだった

写真はここに

----
陸路国境越え~連合赤軍と同じルートでシリアへ入る~プロローグ
【プロローグ】

古い話だがもう2度と行かないだろうし、かの地はたぶん何も変わっていないだろうから、今更だけど僻地好きtanakabuchoの冒険記録を書いておこう。
時は1998年、tanakabucho一家がタイ・バンコックに駐在していた頃...


tanakabuchoには2つ下の妹が居て、作業療法士として日本の病院で働いていた。
その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
普通の家庭だったtanaka家は、息子はバンコックで、娘はシリアで働くという国際一家になり、妹はどこにあるかもわからないような、シリアという国の首都:ダマスカスに赴任した。

しばらくして日本にいるお袋から、「シリアにいる娘に会いに行きたい」と国際電話が入った。
確かに日本から行くよりも、バンコックからの方が行き易いに違いない...そうなれば行かないわけにはいかん! と言うことで、tanakabuchoはバンコックでシリア行きの調査を始めた。

バンコックは国際都市。中でもスクンビット通りはソイ(小路)の数字の若い方からアラブ人街、韓国人街...と住み分けていて、ソイ31から49位が日本人街。私はソイ39に住んでいた。

ソイ1はアラブ人街。一歩踏み入れるとヒゲにターバン、水たばこの男どもがズラリ。
そのそばの旅行代理店に入り、シリアへ行きたいのだが、と告げた。シリア?スペルは何?と聞かれるほど当然ながら誰もあまり知らない。
でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。

店を出ると早速アラブメシ屋に入り、食い物の調査を行う。主食は豆であった。
ついでに水たばこの吸い方やアラブ式コーヒーの作法なども徐々に把握する。一時期は会社で仕事が終わると毎日ソイ1に向かっていた。

数日通ったある日、バンコックからシリアへ入るには、アンマン経由とドバイ経由の二つ有る、とNoiが言った。アンマン経由の場合はロイヤルヨルダン航空、後者はGulfAirだと言う。
この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
その結果、バンコック→アンマン→ダマスカスの空路往復なら6日間で行けることもわかった。

数日後、Noiが言った。ヨルダンのVISAはバンコックで取れるが、シリアのVISAは取れない。取れる最寄りの国はインドネシアだ、と。
社会主義のイスラム国家。愕然としたが、よく聞くと国交が有る日本なら取れると言う。

何日か後に、日本へ出張で帰る知人の日本人女性がいた。彼女(タイあだ名はngaam)


にパスポートを預けるしかない。ngaamは快諾してくれ、tanakabucho一家4つのパスポートを持って日本へ旅立った。
成田にはお袋が自らのパスポートを持参して迎え、ngaamはtanaka家5つのパスポートを持って僻地専門の旅行会社「西遊旅行社」へ行き、見事に数日後、シリアのVISA付きパスポートを携えてバンコックへ戻って来た。
ともかく最大の懸念事項を突破した瞬間であった。

その後は会社の休みを取るための準備と、旅程作成に取り掛かった。
お袋は折角だから1日でも長く居たいと言うし、tanakabuchoはtanakabuchoで、インディージョーンズ最後の聖戦でハリソン・フォードと親父役ショーン・コネリーが馬で乗り付けるヨルダンの「ペトラ遺跡」へ何としても行きたかったので、フライトスケジュールと首っ引きの結果、会社を9日間休ませてもらわなければならなくなり、仕事もアタフタし始めた。

一方、自称インディージョーンズとしては装備も整えねばならず、キャメルのネルシャツ、ハッシュパピーのデザートブーツ、そしてもちろんインディー風帽子などを買い揃え、準備に余念がなかった。迷ったが、ムチは買わなかった。

当時パソコン通信は出来たが、妹の居るシリアという国は後に悪の枢軸国と言われるように社会主義・鎖国状態で情報統制は厳しく、妹とは滅多に連絡が取れなかった。
たまにつながっても電話線がゥワーンとしていて、さながら盗聴されているみたいだった。
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、ダマスカスへの到着日を伝え、合流するダマスカス市内のホテルの名前を聞くことが精一杯だったようだ。そんな状況下で徐々に出発の日が近づいてくる。

確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~バンコック便がキャンセル待ちで取れていなかった。Noiの顔色も曇りがちだ。とは言えお袋には成田~バンコックのビジネスクラスのチケットを送ってあり、もうすぐ来てしまう。

もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。これによって土壇場に、あとプラス2日の休暇を取らねばならなくなり、社長にお願いしに行って11日間の休みをもらった。
タイ人スタッフは応援してくれた。お袋はもちろん延長歓迎であった。

ともかくも準備は揃った。と言っても手もとに有るのはバンコック~アンマンの往復チケットのみで、肝心のアンマン~ダマスカスのフライトチケットは無い。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たなければならなかった。
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、と腹を決めた。地図を見る限りでは行けそうだった。とは言え皆に言うと心配するからアンマン到着まで内緒にすることにした。
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。

そういうわけでバンコック~アンマンの往復チケット以外はブッキング無し、しかも連れは女子供(娘ふたりは小1と年中)だけと言う、恐るべし家族連れ中東旅行がスタートするのである。

【プロローグ終わり】


陸路国境越え~湾岸編
【湾岸編】

出発日前日にお袋が成田から単身到着。娘に逢いたい一心の親心は初めての単身海外旅行も可能にする。我が家で1泊。
翌日はいよいよ出発日。タクシーでバンコック国際空港へ行き、ロイヤルヨルダン航空の飛行機に乗り込んだ。バンコックから西へ飛ぶ、初めてのフライトである。

前方に数席だけ用意された禁煙席に座り機内後方を見るとヒゲ・ターバンのアラブ人がほぼ全員タバコを吸っていて既に煙は機内に充満し、目を凝らすと奥に行くに従ってどんどんどんどんアラブ度が濃くなっていくようであった。

やがて機が飛び立ち、しばらくすると前方のスクリーンに方位磁針の針のような矢印が現れた。常に微かに回転している。
やがて謎が解けた。客席から何人もがドタドタと立ち上がり、通路に個人所有の玄関マットみたいなものを敷いて、全員矢印の方に向いてお祈りを始めたのである。そう、この矢印はメッカの方角を示していたのであった。
イスラム教のお祈りは日に5回、日々時刻が決まっていてキッチリと行われるから、アンマンに着くまでの間に数回、同じ光景を目にする羽目になった。

やがて機は降下を始め、おやおやまだアンマンに着くには早いぞ?と思っていたらUAE(アラブ首長国連邦)のシャルジャ空港に着陸した。スチュワードに聞くと給油のためと言うことだった。
サンタクロースの絵が描かれた(確か)フィンランドの飛行機が隣に停まっていた。

再び機は離陸したがここからは「湾岸」である。クウェートを目指して飛び、途中からサウジ・イラク上空へ、左へ旋回する。スクリーンに現在地が地図とともに映し出されるとまさにクウェート手前。少しだけ緊張した。


アラブ探検隊 ~シリア・ダマスカス到着~

ロイヤルヨルダン航空バンコック発アンマン行きはクウェート、サウジ上空を順調に飛んで、ヨルダンの首都アンマンに有るクイーンアリア国際空港に着陸した。荷物が出て来るのを待ちながらカートを探しに行くと、暗い眼をした青年が有料だと金額を言った。

詳しい単価やレートは忘れてしまったが、ヨルダンの通貨であるヨルダン・ディナール(JD)で払うと100円程度、US$だと2ドルとか、ともかく「ドルで払うと2倍」程になる。これはここのみならず、アラブ探検旅行中、これからどこでも遭遇することになる。

カートを借りて荷物を積み、外に出てタクシーのドライバーにとりあえず「アブダリ・バスターミナル」と告げる。
どこへ行くのか? と聞かれたのでダマスカス、と言うと「ダマスカスへ行くドライバーが居るツーリストが有る」と言うので、バスターミナルでなく、そこへ運んでもらうことにした。

ドアに「Damascus」と書いてある町外れの民家のような建物の前に停まり、タクシーの運転手が話をしに行って戻ってきた。ドライバーが来るからここで待て、と言ってタクシーは去った。
10分ほど待っていると明らかに今起きたばかりの正統派アラブ人が埃だらけの毛布を持ってやって来た。車に乗れと言うので荷物をトランクに積んで乗り込む。tanakabuchoは助手席、家族は後部座席。埃だらけの毛布は運転席と助手席の間に置かれた。
幅広のアメ車で広くて快適だった。

北上の冒険はこの車と共に進んだ

料金は100ドルで交渉成立。「1回100ドル」と言うのもアラブの決まり文句だ。我々からすると100ドルで約200kmの距離を国境またいで5人乗っけて運んでくれれば飛行機よりは勿論安いし御の字だが、アラブ人から見たら相当の価値・金額だろう。
そう言うわけでアラブ旅行イコールUSダラー集めなので注意が必要だ。

古風な町並みが素敵なアンマン市街を抜けて、やがて車は砂漠の一本道に入り、国境に向けて北上する。
砂漠は砂ではなく砂礫が粒々で、ざらざらゴツゴツしたタイプだ。
車窓に見るものも何も無いが、道中にただひとつだけ、道路標識が有った。
「直進シリア、右折イラク」である。たまにイラクで日本人も犠牲になるが、彼らはそこを右折したに違いない。まったく南無阿弥陀仏な交差点である。

快適にとばしていたらどうやらスピード違反で捕まったらしい。ドライバーが降りて行き、警官と話し、しばらくして戻って来た。しかし例えばこの辺でHOLD-UPでもされたらイチコロだったなぁ。でもその辺はアラブよりむしろアメリカの方が危なかったりするんだろう。がめつさを除けば人は良いんだよなぁきっと、アラブ人は。

やがてドライブインが現れ、トイレへ行き小休止。ドライバーは後ろのナンバープレートを上げた中に有る給油口へ、ガロン缶から自分でガソリンを補給した。そしてドライブインの店でお菓子を大量に買い込んで車に積んだ。シリアで売るか卸すかするのだろう。

さて、いよいよシリア国境が近づいて来た。
シリアへ入るには緩衝地帯を通らねばならないから、陸路では車で無いと入国出来ない。
シリアへ近づいたのは一目瞭然で解る。アサド大統領のどでかい肖像画が道の両脇にずらりと並び始めるからだ(ちなみに今のアサド大統領は当時の大統領の次男)。
我々はこれから独裁者が君臨する社会主義国へ入るのである。

緩衝地帯前で一度パスポートと荷物のチェック。
国境で再度チェック。
イミグレーションは問題なく速やかに抜けた。ngaamが取ってきてくれたVisaのお陰である。
入国カードが硬い大きな紙(大昔の国鉄の硬券切符のでかいやつ)なので持ち歩きに難儀した覚えが有る。
ともかくもシリアへの陸路入国は割とあっけなく完了した。

シリア側の緩衝地帯を抜けて今一度チェックを受けた後、砂漠から徐々に町へ入って行く。
妹に電話をしたかったが今まで物理的に電話機が無かった。
その内、こじんまりとしたドライブインを見つけて休憩。電話機が有ったので電話を試みるが、結局掛け方がわからずに断念した。

このままホテルまで行けるのかと思いきや、ダマスカス(以下、ダマス)の街の中で「ヨルダンの車が入れるのはここまで」とドライバーに通告されると同時に群がってきたダマスのタクシー運ちゃん連中に勝手に荷物を出され積み込まれる。この「群がり」もアラブの日常茶飯事の光景だ。
大騒ぎしている運ちゃん連中から冷静に1台を選ぶ。

さて、ようやく妹と落ち合うホテルに着いた。
朝、アンマンに着いて、ダマスのホテル着は確か13時~14時頃だったか。ともかく旅前半の大冒険、陸路国境越え・社会主義国入りは無事に成し遂げた。

フロント(ここから先、店員や従業員はすべて男です)にMiss Junko Tanakaがチェックインしているかと聞くと、Yesと言って部屋番号を教えてくれた。

妹は、何の連絡も寄越して来ないが多分アンマンには着陸してるだろうはずの兄達にじれながらも、きっと来るだろうと早めにチェックインして待っていたらしい。
感動の再会の瞬間であったが、安堵でビールを飲んでしまったtanakabuchoはその辺の事を良く覚えていないのであるが。

【まとめ】
「2倍」「100ドル」「群れる男達」。初日に早くも3つのアラブ事情を学んでしまったのであった。

----
【再掲時追記<コラム>】 国境線が直線なのは何故?

普通の国境線は大河や山岳地帯の稜線だが、中東やアフリカ大陸の国境線には直線が目立つ。これは主に英仏列強が2点間を直線で結び、その線で領土を分けたためだ。
直線国境が多い地域は例外なく紛争が多い。
列強支配の頃と変わっていないのか、そもそも発展しにくい土地なので独立してからも安定出来ないのか。
中東ではさらに、クルド人に関係なく線が引かれた。
当時の列強の振舞いが今に禍根を残し、バグダッド陥落、イラク内戦ひいてはイスラーム国となり多数の難民を出している。
歴史は一旦ねじれると相当の時間を掛けても戻れないどころか、時間が経過するともっとねじれるものの方が多いらしい
----


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(1

tanakabucho一行シリア行きのスケジュールは確かこうだった。

1998年12月5日(土)バンコック0:30発アンマン行きロイヤルヨルダン(RJ)航空181便、アンマン着5:15(時差5h)。
その日は陸路国境超えでシリア・ダマスに入ったのが午後。SEMIRAMIS HOTELで妹と待ち合わせ。ここまでは既に書いた。
その晩から妹の家に泊まったはず。1F~半地下で3つ~4つ部屋が有る、古くて味の有る建物だった。

そこからはたぶんこんな感じだった。


  • 126日(日)ダマス市内観光とシリア人ウォッチング(アラブ人は余り面白くない。タイ人は面白い。このところ見て来たインドネシア人も面白かった)
  • 7日(月)運転手付ハイヤーを1日借り切って(100US$)、シルクロードのオアシスとして栄えた世界遺産「パルミラ」日帰り観光。ダマスから北へ200kmチョイのところ
  • Palmyra Theatre - http://panoramio.com/photo/7004390
  • 8日(火)ダマス滞在
  • 9日(水)同じくハイヤーを12日で借り切って(これも100US$(運転手の宿代含む))、アラブの北の果ての世界遺産「アレッポ」へ1泊観光。ダマスから約300km。あと60km上するとトルコ国境。宿泊したホテル名失念
  • 【参考】旅行のクチコミサイト フォートラベル
  • http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/aleppo/travelogue/10390904/
  • 10日(木)アレッポと周辺の観光後、ダマスへ戻る
  • 11日(金)朝8:00頃に妹と別れ、妹宅を運転手付ハイヤーで出て一路南下し、再度国境を越えてアンマンを通り越しぺトラ遺跡へ。国境を挟み距離約450kmと言う長旅(これもまた100US$)。ペトラ遺跡近くで予約無しで飛び込んだドミトリー、Petra Moon Hotel泊。5人用相部屋をちょうど貸切り。朝飯付5人で1円以下だったはず。晩飯は近所のホテルへ食いに行った。結婚式をやってて日本人は珍しがられた
  • General view of the Treasury. Petra, Jordan. - http://panoramio.com/photo/21705248
  • 12日(土)ペトラ遺跡観光。遺跡内の案内所で今晩のホテルを尋ねたところ、★★★★★Taybet Zaman Hotel & Resortを紹介してくれた。最後の晩なので奮発して堪能した
  • Taybeh - Hotel Taybet Zaman - http://panoramio.com/photo/7560170
  • 13日(日)ゆっくりとホテルをチェックアウトしてハイヤーを借りる。30US$くらいで交渉したと記憶している。死海に寄ったりしつつ、アンマン・クイーンアリア空港22:00発のRJ180便でバンコックへ出発14日(月)午前中にバンコック空港着。
  • 一目散に空港の日本料理屋へ行って「うどん」を喰った

 --Details--

12月7日、パルミラ観光


シリアは男尊女卑のイスラム教国なので街中には女性はまったく居ない。ホテルもレストランも雑貨屋も係員や店員はみんな髭を生やした暑苦しい男である。
たまーに女性が居ると真っ黒な頭巾を上から下まで被っている(亭主以外に姿を見せちゃいけないんだと)。そう言うわけでまったくもって華の無い国である。

そこにtanakabucho一行である。
妹とその友達も連れているので「男tanakabucho以外は母親、女房、長女、次女、妹、妹の友達と言う男1:女6」と言うシリア人の男ども垂涎の一行となっている。
みんな羨ましそーぅに見てたので堂々と連れてゾロゾロと道の真ん中を歩いた。
しかしながらさばき方は結構大変で、レストランに入る度に「ミスター。ファーストマダムはどちらでしょうか?」とうやうやしく聞かれるので面倒くさいから年功序列で母親を1st.にしておいた。

パルミラは273年に陥落、廃墟になりその後放置されたとある。ダマスは世界一早くから人が住み始めた町、と言われているが、それにしても旧い歴史を持ったところである。
文明の源、チグリス・ユーフラテス川も今はイラク。
キャラバンの当時に流れていた悠久の時間は、近年になってねじ曲がってしまったらしい


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(2)

12月9日~10日 アレッポ観光


アレッポの名産品はオリーブ石鹸だ(沢山買い込み過ぎて、後に帰り便の手荷物が重くて苦労することになる)。
アレッポはダマスにつぐ大都市で、ヨーロッパの入口、トルコに近い。

シリアは社会主義国でスーパーマーケットのようなものは無いので、買い物はスークと呼ぶ市場、または雑貨屋(ドカーンと呼ぶので笑える)で買うしかない。

アレッポの巨大スークに迷い込むともう異次元だ。迷路のように細い路地が続き店がひしめく。ロバなんかも普通に連れて入って来るので我々からすると日常が阿鼻叫喚である。
日本人を見かけると、オートーマキマキオートーマキマキと店員の青年たちが歌いだした。良く聞くと「糸巻き巻き糸巻き巻き引いて引いてトントン・・・」の歌だった。JICAやODAの日本人から教わったんだろう。嬉しい瞬間だ。

ホテル名は失念したが、市街中心部の綺麗なホテルに泊まった。
ベルボーイは我々を部屋に案内した時に「私の英語がpoorで済みません、私はクルド人なので」と流暢な英語で言った。
知らない世界に来ていると言うことを実感する瞬間である。

アレッポ城は高台に築かれた広大な城で、外周を回れたように思う。
ひとりだけ離れて歩いている時に、アラブ人2カップル集団とすれ違った。生意気そう(で金持ちそう)な♂に「マルハバ」と挨拶したら「トルコ野郎!(It's Turkish!)」と言いやがった。
マルハバはアラビア語口語体の、こんにちわである。むっとしたがそれだけでは引き下がらずにすかさず「アッサレームアレイクム」と返したら今度はハグして来た。
アッサレーム~はイスラム共通の挨拶で、「神の御加護のもとに」みたいな意味だ。

言葉を多少なり覚えていれば海外生活での安全度合いは高まる。
連れのLady達はグラマラスで美人だったがきっと今頃はジャンボになっていることだろう。

ホテルの窓からカルナック(遠距離バス会社)バスの車庫が見えたが、日本の成田・羽田空港リムジンと同じ車体・デザインだったのが妙に印象的だった。

アレッポから数十km北の街や城、モスクなどにも行ったのだが、残念ながら詳しいことは忘れてしまった。トルコ国境まであと30km位のところまで行ったんだけどね


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(3)

シリア面白話①

シリアの紙幣には銀行のスタンプが押してある。ダマス滞在中に妹がJICAの給料を貰って来た。
100US$札が数枚あったが1/3ほどが偽札だった。

かつて精巧なコピーを誇ったSuper-Kなら我々一般人にはわからないが、明らかに紙質がヘボく、しかも印刷が曲がっているので一目瞭然で偽札である。でも銀行のスタンプは同じように押してある。即ち「偽札も普通に使える」のだ。
が、さすがに使えるのはシリア国内だけ。
よってシリアにおける偽札は「ババ抜きのババ」みたいなもんで、掴んだら出来るだけ早く使ってしまわなければならない。
「あと何枚か有るからお兄ちゃん、交換して」と妹からtanakabuchoの手に移ったババは合計10枚ほど。これらはハイヤーの運転手やアレッポのホテル代などに還元させて頂きました。
駐在者は余り旅行など行く機会が無いから、偽100US$の使途は悩みの種らしい。
ちなみにシリアの正式通貨はシリア・ポンド。軒並みくしゃくしゃの札で、経済の疲弊を感じさせる。
しかしさすが悪の枢軸国シリア。北朝鮮ももっと真面目に偽札を作りなさいね(1998年当時の実話です)

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(4)
シリアがもうすぐ壊れそうなので、アラブ探検記後半戦を書いておこう。

19981211日(金)、ダマスカスから国境越え→ヨルダンの首都アンマンを越えてかの「ペトラ遺跡」まで、アラブ人運転手をいつもの100US$で雇った。
運転手の名前はアブ・シャーディ。シャーディの父、と言う意味だと言っていたが、シャーディの意味は忘れた。
ペトラまでは直線でも370km、道のり450kmと言う長旅だ。国境まで120km位なので所要1.5h~2h、国境でトラブって2h掛かったとしてここで昼、残り330kmを時速80kmで走って4h。夕方遅くにはペトラに着くだろうと気楽に計算した。
妹がなけなしのカリフォルニア米を炊き、海苔も具も無い塩むすびを作ってくれた。弁当に有りがたく頂き、ワゴン車に乗り込む。ワゴン車はDAEWOOかHyundaiの韓国車だった。
妹と別れ、さてこれからはペトラ遺跡観光を主とする後半戦の始まりだ。

ペトラ遺跡にこだわったのは勿論、インディ・ジョーンズ/最後の聖戦の舞台になった場所だからだ。ジョーンズの親父ヘンリー(ショーン・コネリー!)と2人で馬に乗り、シークと呼ばれる、まさに神の鉄槌一撃で出来たかのような岩の間の細い通路を走り切ると紅色に光る姿を現すエル・カズネ(宝物殿)。
垂涎の地であるここに行くのに、今回の機会を逃す手は勿論無かった。

車はダマス市街から南下し、やがて国境。家族を車に残して手続きをしに行く。運転手は自分の分だけ手続きをする。何が会話されているのか皆目わからん事務所で5通出したパスポートの内、30~40分待たされて帰って来たのは4通だけで、お袋の分が無かった。もう1通有ると尋ねるがなかなか埒(らち)が開かず、かと言って放置されているわけでも無いのでさらに30分ほど待ってもう一度「5通目のパスポートをくれ」と言った。事務所で腰かけて待っているとその内、ジャパニーズ!と呼ばれたので出頭(?)すると、本人を連れて来いと言う。
車に戻り、本人を連れて来て見せると途端にOKになり、パスポートが返却された。
車に戻ると運転手が「何か有ったのか?」と聞いた。助けろっての、困ってんだから。
その昔、日本赤軍も通ったであろう、この国境。
思うに、赤軍にTanaka Kazuo(お袋の名はカズヨ)みたいなブラックリストがあって、日本人の名前なぞ良くわからんアラブ人が警戒したのか知らんが、お袋は世界でも有数の安全な人物であることはその姿を見れば一目瞭然であろう(余裕の(笑))
ともかくこうして、国境でトラブって2h、は的中したものの社会主義国・独裁国家から観光立国・資本主義のアンマンへ再入国することが出来た。車はアンマン市街に向けて砂漠の間を南下する。

注) アンマンへ再入国の地図の通り、アラブの地図にはイスラエルと言う国は存在しない
シリアの入国カード。固くてでかくて邪魔だった
アンマン市街からペトラ方面へ南下する道路は2つある。砂漠の間をひた走るThe King's Highwayと、死海沿いを走るもうひとつの道だ(名前失念)。The King's Highwayは飛ばせるが景色が単調(砂漠のみ)なので運転手に指示して死海沿いの道を走らせる。
時間が少し有りそうなのでカラク城に寄り道することにした。十字軍の城だ。運転手に言うとOTOver Time)は+30$とか言って来たので確か半額位で交渉した。古く広大で、且つ生活感も感じる不思議なお城だった。壁画(天井画)が綺麗な教会にも寄った覚えがある。
確かこの辺で夕方16時頃になり辺りも薄暗くなり始めた。
カラク考古学博物館の入場券。どうやら博物館に入ったらしい
車はすぐに暗闇の中を突っ走り始めた。街灯も無い本当に漆黒の闇をぶっ飛ばすので怖いが、慣れてるんだろう、と信頼する(しか無い)。

ペトラが近づいて来たのでアブ・シャーディに、安いホテルを教えてくれと頼んだ。
着いたのはPetra Moon Hotelだった。HitしたWebサイトで見ると立派なホテルだが当時はドミトリーの安宿だった。チップを渡してアブ・シャーディは消えた。
物持ちが良いというか、Petra Moon Hotelの名刺があった

何とホテルの名刺の裏にあのアブ・シャーディ直筆サインが! 
普段なら5人相部屋になる部屋を丸ごと借りた。全員で1万円はしなかった。
晩飯は奮発することにしてすぐそばの☆☆☆☆ホテルへ歩いて行き、そこのレストランで喰った。ちょうど結婚式をやっていて日本人は珍しがられた。中華かなんか喰ったと思われる。

部屋に戻るとコンセントの形状が違い、ビデオカメラのバッテリーを充電出来ないことがわかった。近所の店を覗くがお土産屋みたいのばかりで電気部品など置いていそうもない。
仕方なく(と言うか当然)、TVと暖房を除けば唯一の電気器具であるライトスタンドを分解して線を使わせて頂いた。旅には小型のプラスドライバーとビニールテープは必須アイテムである。翌日泊まった方には灯りが点かなくて済まなかった。

翌朝ホテルでメシを喰い、何と昼飯の弁当まで支給された(ポリ袋にコッペパン1個とキュウリ1本(貧乏バックパッカー向けだね(泣)))。
ペトラ遺跡はもう目の前。

さーていよいよぼったくりPetraランドへ突入だ!


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(5
もうすぐ壊れそうなシリアからは既に脱出済み。アラブ探検記、後半も後半に突入!


ペトラは凄いところだ。まず入場料がべらぼうに高い。幾らかは忘れたが何でも急に何十倍に値上げされたとかで、確かTDL以上の価格設定だったと記憶している。次に乗り物である。ラクダ、馬車、馬、ロバなど揃っているが皆協定価格だからどこで乗っても割高だ。観光立国も外国人からのぼったくりじゃ困る。

まずは入場券を買いシークと呼ばれる崖の間の通路を歩きでスタートする。早速馬車に乗った観光客が追い越して行く。
やがてエル・カズネ(宝物殿)が現れる。太陽が当たると絶妙な紅色に映える、一枚の岩盤を掘った荘厳な遺跡だ。
映画ではインディが中に入り様々な仕掛けを解くのだが、中には部屋がひとつあるだけだ。


超巨大な彫り物だ

ここから先のペトラ「園内」は広大だ。
地図を使いながら当時の行程を説明すると、①から入ってシーク通路を通り④がエル・カズネ。ここでラクダ5頭のキャラバンを組んで、確か22の辺りまで移動。ここから登り道に入るのでラクダからロバに乗り換える。僕のロバに乗ってくれ、尻が大きい、乗り心地が良い等々喋りまくる小僧どもに一斉に囲まれる。
そんな時は「ハラース!」と言う。シャラップ、静まれ小僧ども!のアラビア語である。
一瞬にしてシーンとなる。
その中から小僧の性格が良さそうで一番でかいロバを選んでまずお袋を乗せる。
そうして順々に小僧とロバを選んで家族を乗せて行く。
手綱を引かれたロバは隘(あい)路をザクザクと登る(ラクダもロバも、アラブ人小僧の御者が付いている)。歩いて登る人も居るが相当きつい。tanakabuchoも撮影に徹しようと当初歩きで登ったが途中でバテて、リュックサックを小僧に背負わせた。やがて24番、丘の上にエル・カズネに似た彫り物が現れる。

ロバは登りだけで帰路(下り)は危険なので人を乗せない。
階段をひたすら下るので娘たちに段数を声に出して数えさせていたら「日本語は久しぶりですぅ」と放浪ジャパニーズ(♂)が寄って来た。
お仕事ですか?と聞くので
「私はヨルダンの日本大使館員だがある特別な任務についていて、シリア政府にばれると殺されるからここで日本人家族と会ったことを他人に話してはならない」と真面目な顔で言ったら信じてしまった。
確かに、6歳と4歳の娘を連れて日本人家族が観光に来ているとは思わないところだ。


まさにキャラバンを組んだ

この年でアラブツアーとは立派!

階段を下まで降りて来て22の考古学博物館を覗き、7~13の墓の群れを見つつ、6番付近に有った観光案内所で今晩のホテルを紹介してもらった。
TAYBET ZAMAN Hotel & Resortがお薦めだと言うので、5ツ☆で値段は張るが最後の晩なので贅沢しようと、そこに決めた。

夕方になると協定価格にも値引きが入って来る。
帰路の④から①までは少々ディスカウントした馬車で移動した。シークのごつごつの石畳を結構なスピードで、馬車はかっ飛ばした。強行軍だったがラクダ、ロバ、馬(馬車)となかなか面白い行軍であった。

ペトラ園外へ出てホテルへ戻り、預けておいた荷物を積んで、タクシーでTAYBET ZAMANへ移動した。

以上、ペトラ遊園地報告終わり。

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(6 最終回)


1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルであるタイベット・ザマーンにチェックインした。
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、僻地長旅の最後の晩にふさわしいところだった。
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人中学生~高校生女子20人ぐらいの一団がやって来て、責任者の先生から「部屋の中を見せて下さい」と頼まれる。
断る必要もなくどうぞ、と行ったら騒々しくどやどやと部屋に入って来てワンダフルみたいなことを言って娘たちと写真を撮ったりして消えた。社会科見学だったのだろうか。
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマンQueen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、翌朝はゆっくりチェックアウトすることにして朝10時頃にタクシーを呼んだ。


翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャーターしたタクシーに乗り、まず死海を目指した。
死海と言うのはたいそう不思議なところで、まず世界一海抜が低い湖でマイナス400メートルである。
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、生物が棲めないほど塩分が濃くなったので死海(Dead Sea)と呼ばれる。
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、湖面は徐々に低下している。
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、ここに砂漠の真ん中の奇跡が有って、死海が近づくと緑が見え出す。作物がなっているのだ。
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみずみずしく映った。
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆られたがここはヨルダンだったと思いだしてあきらめた。
死海の水は噂通り辛かった。

ここでも運転手と交渉して幾つか観光に回った。
夕方、17時過ぎくらいにQueen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。空港利用料の支払いにクレジットカードが使えず、大切に使って来たUS$が底をついた。止む無く、滅茶苦茶低いレートで1万円札を両替した覚えがある。

やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック  ドン・ムアン国際空港へ運んだ。
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内の日本料理屋「日本亭(にっぽんてい)」へ入り、一目散にうどんを喰った。心底美味かった。


当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。きっと今でも変わっていまい)

  • 外貨ぼったくり&外貨亡者
  • ヨルダンは観光立国と名乗っているだけあって英語が通じて便利(シリアでも通じたが)
  • 主食が豆なのでメシが結構厳しい。世界各国各地域いろんな主食が有るが、豆のところが旅行者には一番キツイのではないかな?(次女(当時4歳)は「こんなごはんもうやだ!と1回だけ騒いだ」)
平和だったあの頃の町並み
【追記】
帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(米英によるイラク空爆)が行われた。この旅行が1週間遅れていたら行けなかった。そもそもバンコックに住んでて情報に疎かったからなのか、そんな作戦が進んでいるとはつゆ知らず、であった。
娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのおばさん)を連れて翌年もう一度シリアへ行った! 今度はドイツ→トルコ経由で入ったらしい。恐るべしパワーである!
 人類が最初に住みついた町ダマスカス
 長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
 ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
 すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みません。
-了-


0 件のコメント:

コメントを投稿