1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルである
タイベット・ザマーンにチェックインした。
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、僻地長旅の最後の晩にふさわしいところだった。
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人中学生~高校生女子20人ぐらいの一団がやって来て、責任者の先生から「部屋の中を見せて下さい」と頼まれる。
断る必要もなくどうぞ、と行ったら騒々しくどやどやと部屋に入って来てワンダフルみたいなことを言って娘たちと写真を撮ったりして消えた。社会科見学だったのだろうか。
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマン
Queen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、翌朝はゆっくりチェックアウトすることにして朝10時頃にタクシーを呼んだ。
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リゾート内地図 |
翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャーターしたタクシーに乗り、まず死海を目指した。
死海と言うのはたいそう不思議なところで、まず世界一海抜が低い湖でマイナス400メートルである。
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、生物が棲めないほど塩分が濃くなったので死海(Dead Sea)と呼ばれる。
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、湖面は徐々に低下している。
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、ここに砂漠の真ん中の奇跡が有って、死海が近づくと緑が見え出す。作物がなっているのだ。
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみずみずしく映った。
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆られたがここはヨルダンだったと思いだしてあきらめた。
死海の水は噂通り辛かった。
ここでも運転手と交渉して幾つか観光に回った。
夕方、17時過ぎくらいに
Queen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。空港利用料の支払いにクレジットカードが使えず、大切に使って来たUS$が底をついた。止む無く、滅茶苦茶低いレートで1万円札を両替した覚えがある。
やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック ドン・ムアン国際空港へ運んだ。
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内の日本料理屋「日本亭(にっぽんてい)」へ入り、一目散にうどんを喰った。心底美味かった。
当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。きっと今でも変わっていまい)
- 外貨ぼったくり&外貨亡者
- ヨルダンは観光立国と名乗っているだけあって英語が通じて便利(シリアでも通じたが)
- 主食が豆なのでメシが結構厳しい。世界各国各地域いろんな主食が有るが、豆のところが旅行者には一番キツイのではないかな?(次女は「こんなごはんもうやだ!と1回だけ騒いだ」)
【追記】
- 帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(米英によるイラク空爆)が行われた。この旅行が1週間遅れていたら行けなかった。そもそもバンコックに住んでて情報に疎かったからなのか、そんな作戦が進んでいるとはつゆ知らず、であった。
- 娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのおばさん)を連れて翌年もう一度シリアへ行った! 今度はドイツ→トルコ経由で入ったらしい。恐るべしパワーである!
- 人類が最初に住みついた町ダマスカス
- 長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
- ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みません。
-了-