15年2月某日の瀬戸内行
http://goo.gl/photos/0Cr2Bxb0D5
希和子と薫に、少しだけ近づけたような……
2015年2月19日木曜日
2015年2月15日日曜日
3年と11ヶ月経過した福島県
片づきはしたがもう間もなく4年に..
JR常磐線原ノ町駅~阿字ヶ浦駅間の写真(鉄道写真だけではありません)
https://picasaweb.google.com/113678205872139090509/20150214?authuser=0&feat=directlink
帰還困難地域の国道6号線を南相馬側から南下した動画
フクイチ入口通過は7分55秒後
https://cloud.real.com/s/7ix23V
いずれも2015年2月14日(土)の撮影
JR常磐線原ノ町駅~阿字ヶ浦駅間の写真(鉄道写真だけではありません)
https://picasaweb.google.com/113678205872139090509/20150214?authuser=0&feat=directlink
帰還困難地域の国道6号線を南相馬側から南下した動画
フクイチ入口通過は7分55秒後
https://cloud.real.com/s/7ix23V
いずれも2015年2月14日(土)の撮影
2015年1月23日金曜日
今はイスラム国「あの『シリア旅』」一挙掲載!
1998年tanakabucho一家のシリア旅行。
何だかんだ言ってもあの頃は行けた。
今はイスラム国、行く=死にに行くことだ。
ウンヨウBlogに2011年1月から2012年にかけて連載した「あの『シリア旅』」を、若干の加筆修正(てにをはを整えるのみ)で一挙掲載!
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陸路国境越え~連合赤軍と同じルートでシリアへ入る~プロローグ
【プロローグ】
古い話だがもう2度と行かないだろうし、かの地はたぶん何も変わっていないだろうから、今更だけど僻地好きtanakabuchoの冒険記録を書いておこう。
時は1998年、tanakabucho一家がタイ・バンコックに駐在していた頃...
tanakabuchoには2つ下の妹が居て、作業療法士として日本の病院で働いていた。
その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
普通の家庭だったtanaka家は、息子はバンコックで、娘はシリアで働くという国際一家になり、妹はどこにあるかもわからないような、シリアという国の首都:ダマスカスに赴任した。
しばらくして日本にいるお袋から、「シリアにいる娘に会いに行きたい」と国際電話が入った。
確かに日本から行くよりも、バンコックからの方が行き易いに違いない...そうなれば行かないわけにはいかん! と言うことで、tanakabuchoはバンコックでシリア行きの調査を始めた。
バンコックは国際都市。中でもスクンビット通りはソイ(小路)の数字の若い方からアラブ人街、韓国人街...と住み分けていて、ソイ31から49位が日本人街。私はソイ39に住んでいた。
ソイ1はアラブ人街。一歩踏み入れるとヒゲにターバン、水たばこの男どもがズラリ。
そのそばの旅行代理店に入り、シリアへ行きたいのだが、と告げた。シリア?スペルは何?と聞かれるほど当然ながら誰もあまり知らない。
でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。
でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。
店を出ると早速アラブメシ屋に入り、食い物の調査を行う。主食は豆であった。
ついでに水たばこの吸い方やアラブ式コーヒーの作法なども徐々に把握する。一時期は会社で仕事が終わると毎日ソイ1に向かっていた。
数日通ったある日、バンコックからシリアへ入るには、アンマン経由とドバイ経由の二つ有る、とNoiが言った。アンマン経由の場合はロイヤルヨルダン航空、後者はGulfAirだと言う。
この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
その結果、バンコック→アンマン→ダマスカスの空路往復なら6日間で行けることもわかった。
数日後、Noiが言った。ヨルダンのVISAはバンコックで取れるが、シリアのVISAは取れない。取れる最寄りの国はインドネシアだ、と。
社会主義のイスラム国家。愕然としたが、よく聞くと国交が有る日本なら取れると言う。
何日か後に、日本へ出張で帰る知人の日本人女性がいた。彼女(タイあだ名はngaam)
にパスポートを預けるしかない。ngaamは快諾してくれ、tanakabucho一家4つのパスポートを持って日本へ旅立った。
成田にはお袋が自らのパスポートを持参して迎え、ngaamはtanaka家5つのパスポートを持って僻地専門の旅行会社「西遊旅行社」へ行き、見事に数日後、シリアのVISA付きパスポートを携えてバンコックへ戻って来た。
ともかく最大の懸念事項を突破した瞬間であった。
その後は会社の休みを取るための準備と、旅程作成に取り掛かった。
お袋は折角だから1日でも長く居たいと言うし、tanakabuchoはtanakabuchoで、インディージョーンズ最後の聖戦でハリソン・フォードと親父役ショーン・コネリーが馬で乗り付けるヨルダンの「ペトラ遺跡」へ何としても行きたかったので、フライトスケジュールと首っ引きの結果、会社を9日間休ませてもらわなければならなくなり、仕事もアタフタし始めた。
一方、自称インディージョーンズとしては装備も整えねばならず、キャメルのネルシャツ、ハッシュパピーのデザートブーツ、
当時パソコン通信は出来たが、
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、
確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~
もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。
タイ人スタッフは応援してくれた。
ともかくも準備は揃った。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たな
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。
そういうわけでバンコック~
【プロローグ終わり】
陸路国境越え~湾岸編
【湾岸編】
出発日前日にお袋が成田から単身到着。
翌日はいよいよ出発日。タクシーでバンコック国際空港へ行き、
前方に数席だけ用意された禁煙席に座り機内後方を見るとヒゲ・
やがて機が飛び立ち、
やがて謎が解けた。客席から何人もがドタドタと立ち上がり、
イスラム教のお祈りは日に5回、
やがて機は降下を始め、おやおやまだアンマンに着くには早いぞ?
サンタクロースの絵が描かれた(確か)
再び機は離陸したがここからは「湾岸」である。
アラブ探検隊 ~シリア・ダマスカス到着~
ロイヤルヨルダン航空バンコック発アンマン行きはクウェート、
詳しい単価やレートは忘れてしまったが、
カートを借りて荷物を積み、
どこへ行くのか? と聞かれたのでダマスカス、と言うと「
ドアに「Damascus」
10分ほど待っていると明らかに今起きたばかりの正統派アラブ人
幅広のアメ車で広くて快適だった。
料金は100ドルで交渉成立。「1回100ドル」
そう言うわけでアラブ旅行イコールUSダラー集めなので注意が必
古風な町並みが素敵なアンマン市街を抜けて、
砂漠は砂ではなく砂礫が粒々で、ざらざらゴツゴツしたタイプだ。
車窓に見るものも何も無いが、道中にただひとつだけ、
「直進シリア、右折イラク」である。
快適にとばしていたらどうやらスピード違反で捕まったらしい。
やがてドライブインが現れ、トイレへ行き小休止。
さて、いよいよシリア国境が近づいて来た。
シリアへ入るには緩衝地帯を通らねばならないから、
シリアへ近づいたのは一目瞭然で解る。
我々はこれから独裁者が君臨する社会主義国へ入るのである。
緩衝地帯前で一度パスポートと荷物のチェック。
国境で再度チェック。
イミグレーションは問題なく速やかに抜けた。ngaamが取って
入国カードが硬い大きな紙(大昔の国鉄の硬券切符のでかいやつ)
ともかくもシリアへの陸路入国は割とあっけなく完了した。
シリア側の緩衝地帯を抜けて今一度チェックを受けた後、
妹に電話をしたかったが今まで物理的に電話機が無かった。
その内、こじんまりとしたドライブインを見つけて休憩。
このままホテルまで行けるのかと思いきや、ダマスカス(以下、
大騒ぎしている運ちゃん連中から冷静に1台を選ぶ。
さて、ようやく妹と落ち合うホテルに着いた。
朝、アンマンに着いて、ダマスのホテル着は確か13時~14時頃
フロント(ここから先、店員や従業員はすべて男です)にMiss Junko Tanakaがチェックインしているかと聞くと、Yesと言って
妹は、
感動の再会の瞬間であったが、安堵でビールを飲んでしまったta
【まとめ】
「2倍」「100ドル」「群れる男達」。初日に早くも3つのアラ
----
【再掲時追記<コラム>】 国境線が直線なのは何故?
普通の国境線は大河や山岳地帯の稜線だが、中東やアフリカ大陸の国境線には直線が目立つ。これは主に英仏列強が2点間を直線で結び、その線で領土を分けたためだ。
直線国境が多い地域は例外なく紛争が多い。
列強支配の頃と変わっていないのか、そもそも発展しにくい土地なので独立してからも安定出来ないのか。
中東ではさらに、クルド人に関係なく線が引かれた。
当時の列強の振舞いが今に禍根を残し、バグダッド陥落、イラク内戦ひいてはイスラーム国となり多数の難民を出している。
歴史は一旦ねじれると相当の時間を掛けても戻れないどころか、時間が経過するともっとねじれるものの方が多いらしい
----
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(1)
tanakabucho一行シリア行きのスケジュールは確かこう
1998年12月5日(土)バンコック0:30発アンマン行きロ
その日は陸路国境超えでシリア・ダマスに入ったのが午後。SEM
その晩から妹の家に泊まったはず。1F~半地下で3つ~4つ部屋
そこからはたぶんこんな感じだった。
--Details--
12月7日、パルミラ観光
シリアは男尊女卑のイスラム教国なので街中には女性はまったく居
たまーに女性が居ると真っ黒な頭巾を上から下まで被っている(
そこにtanakabucho一行である。
妹とその友達も連れているので「男tanakabucho以外は
みんな羨ましそーぅに見てたので堂々と連れてゾロゾロと道の真ん
しかしながらさばき方は結構大変で、レストランに入る度に「
パルミラは273年に陥落、廃墟になりその後放置されたとある。
文明の源、チグリス・ユーフラテス川も今はイラク。
キャラバンの当時に流れていた悠久の時間は、
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(2)
12月9日~10日 アレッポ観光
アレッポの名産品はオリーブ石鹸だ(沢山買い込み過ぎて、
アレッポはダマスにつぐ大都市で、ヨーロッパの入口、
シリアは社会主義国でスーパーマーケットのようなものは無いので
アレッポの巨大スークに迷い込むともう異次元だ。
日本人を見かけると、
ホテル名は失念したが、市街中心部の綺麗なホテルに泊まった。
ベルボーイは我々を部屋に案内した時に「私の英語がpoorで済
知らない世界に来ていると言うことを実感する瞬間である。
アレッポ城は高台に築かれた広大な城で、
ひとりだけ離れて歩いている時に、アラブ人2カップル集団とすれ
マルハバはアラビア語口語体の、こんにちわである。
アッサレーム~はイスラム共通の挨拶で、「神の御加護のもとに」
言葉を多少なり覚えていれば海外生活での安全度合いは高まる。
連れのLady達はグラマラスで美人だったがきっと今頃はジャン
ホテルの窓からカルナック(遠距離バス会社)
アレッポから数十km北の街や城、モスクなどにも行ったのだが、
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(3)
シリア面白話①
シリアの紙幣には銀行のスタンプが押してある。
100US$札が数枚あったが1/3ほどが偽札だった。
かつて精巧なコピーを誇ったSuper-Kなら我々一般人にはわ
が、さすがに使えるのはシリア国内だけ。
「あと何枚か有るからお兄ちゃん、交換して」と妹からtanak
駐在者は余り旅行など行く機会が無いから、偽100US$の使途
ちなみにシリアの正式通貨はシリア・ポンド。
しかしさすが悪の枢軸国シリア。
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(4)
注) アンマンへ再入国の地図の通り、アラブの地図にはイスラエルと言う国は存在しない
 
  
 
 
  
 
 
  
 
 
  
 
ペトラは凄いところだ。まず入場料がべらぼうに高い。幾らかは忘れたが何でも急に何十倍に値上げされたとかで、確かTDL以上の価格設定だったと記憶している。次に乗り物である。ラクダ、馬車、馬、ロバなど揃っているが皆協定価格だからどこで乗っても割高だ。観光立国も外国人からのぼったくりじゃ困る。
まずは入場券を買いシークと呼ばれる崖の間の通路を歩きでスタートする。早速馬車に乗った観光客が追い越して行く。
やがてエル・カズネ(宝物殿)が現れる。太陽が当たると絶妙な紅色に映える、一枚の岩盤を掘った荘厳な遺跡だ。
映画ではインディが中に入り様々な仕掛けを解くのだが、中には部屋がひとつあるだけだ。
ここから先のペトラ「園内」は広大だ。
地図を使いながら当時の行程を説明すると、①から入ってシーク通路を通り④がエル・カズネ。ここでラクダ5頭のキャラバンを組んで、確か22の辺りまで移動。ここから登り道に入るのでラクダからロバに乗り換える。僕のロバに乗ってくれ、尻が大きい、乗り心地が良い等々喋りまくる小僧どもに一斉に囲まれる。
そんな時は「ハラース!」と言う。シャラップ、静まれ小僧ども!のアラビア語である。
一瞬にしてシーンとなる。
その中から小僧の性格が良さそうで一番でかいロバを選んでまずお袋を乗せる。
そうして順々に小僧とロバを選んで家族を乗せて行く。
手綱を引かれたロバは隘(あい)路をザクザクと登る(ラクダもロバも、アラブ人小僧の御者が付いている)。歩いて登る人も居るが相当きつい。tanakabuchoも撮影に徹しようと当初歩きで登ったが途中でバテて、リュックサックを小僧に背負わせた。やがて24番、丘の上にエル・カズネに似た彫り物が現れる。
ロバは登りだけで帰路(下り)は危険なので人を乗せない。
階段をひたすら下るので娘たちに段数を声に出して数えさせていたら「日本語は久しぶりですぅ」と放浪ジャパニーズ(♂)が寄って来た。
1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルであるタイベッ
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人
断る必要もなくどうぞ、
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマンQueen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、
翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャータ
死海と言うのはたいそう不思議なところで、
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみ
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆
死海の水は噂通り辛かった。
ここでも運転手と交渉して幾つか観光に回った。
夕方、17時過ぎくらいにQueen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。
やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内
当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。
【追記】
帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(
娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのお
人類が最初に住みついた町ダマスカス
長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みませ
当時パソコン通信は出来たが、
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、
確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~
もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。
タイ人スタッフは応援してくれた。
ともかくも準備は揃った。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たな
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。
そういうわけでバンコック~
【プロローグ終わり】
陸路国境越え~湾岸編
【湾岸編】
出発日前日にお袋が成田から単身到着。
翌日はいよいよ出発日。タクシーでバンコック国際空港へ行き、
前方に数席だけ用意された禁煙席に座り機内後方を見るとヒゲ・
やがて機が飛び立ち、
やがて謎が解けた。客席から何人もがドタドタと立ち上がり、
イスラム教のお祈りは日に5回、
やがて機は降下を始め、おやおやまだアンマンに着くには早いぞ?
サンタクロースの絵が描かれた(確か)
再び機は離陸したがここからは「湾岸」である。
アラブ探検隊 ~シリア・ダマスカス到着~
ロイヤルヨルダン航空バンコック発アンマン行きはクウェート、
詳しい単価やレートは忘れてしまったが、
カートを借りて荷物を積み、
どこへ行くのか? と聞かれたのでダマスカス、と言うと「
ドアに「Damascus」
10分ほど待っていると明らかに今起きたばかりの正統派アラブ人
幅広のアメ車で広くて快適だった。
|  | 
| 北上の冒険はこの車と共に進んだ | 
料金は100ドルで交渉成立。「1回100ドル」
そう言うわけでアラブ旅行イコールUSダラー集めなので注意が必
古風な町並みが素敵なアンマン市街を抜けて、
砂漠は砂ではなく砂礫が粒々で、ざらざらゴツゴツしたタイプだ。
車窓に見るものも何も無いが、道中にただひとつだけ、
「直進シリア、右折イラク」である。
快適にとばしていたらどうやらスピード違反で捕まったらしい。
やがてドライブインが現れ、トイレへ行き小休止。
さて、いよいよシリア国境が近づいて来た。
シリアへ入るには緩衝地帯を通らねばならないから、
シリアへ近づいたのは一目瞭然で解る。
我々はこれから独裁者が君臨する社会主義国へ入るのである。
緩衝地帯前で一度パスポートと荷物のチェック。
国境で再度チェック。
イミグレーションは問題なく速やかに抜けた。ngaamが取って
入国カードが硬い大きな紙(大昔の国鉄の硬券切符のでかいやつ)
ともかくもシリアへの陸路入国は割とあっけなく完了した。
シリア側の緩衝地帯を抜けて今一度チェックを受けた後、
妹に電話をしたかったが今まで物理的に電話機が無かった。
その内、こじんまりとしたドライブインを見つけて休憩。
このままホテルまで行けるのかと思いきや、ダマスカス(以下、
大騒ぎしている運ちゃん連中から冷静に1台を選ぶ。
さて、ようやく妹と落ち合うホテルに着いた。
朝、アンマンに着いて、ダマスのホテル着は確か13時~14時頃
フロント(ここから先、店員や従業員はすべて男です)にMiss Junko Tanakaがチェックインしているかと聞くと、Yesと言って
妹は、
感動の再会の瞬間であったが、安堵でビールを飲んでしまったta
【まとめ】
「2倍」「100ドル」「群れる男達」。初日に早くも3つのアラ
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【再掲時追記<コラム>】 国境線が直線なのは何故?
普通の国境線は大河や山岳地帯の稜線だが、中東やアフリカ大陸の国境線には直線が目立つ。これは主に英仏列強が2点間を直線で結び、その線で領土を分けたためだ。
直線国境が多い地域は例外なく紛争が多い。
列強支配の頃と変わっていないのか、そもそも発展しにくい土地なので独立してからも安定出来ないのか。
中東ではさらに、クルド人に関係なく線が引かれた。
当時の列強の振舞いが今に禍根を残し、バグダッド陥落、イラク内戦ひいてはイスラーム国となり多数の難民を出している。
歴史は一旦ねじれると相当の時間を掛けても戻れないどころか、時間が経過するともっとねじれるものの方が多いらしい
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アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(1)
tanakabucho一行シリア行きのスケジュールは確かこう
1998年12月5日(土)バンコック0:30発アンマン行きロ
その日は陸路国境超えでシリア・ダマスに入ったのが午後。SEM
その晩から妹の家に泊まったはず。1F~半地下で3つ~4つ部屋
そこからはたぶんこんな感じだった。
- 12月6日(日)ダマス市内観光とシリア人ウォッチング(アラブ人は余り面白くない。タイ人は面白い。 このところ見て来たインドネシア人も面白かった) 
- 7日(月)運転手付ハイヤーを1日借り切って(100US$)、シルクロードのオアシスとして栄えた世界遺産「パルミラ」 日帰り観光。ダマスから北へ200kmチョイのところ 
- Palmyra Theatre - http://panoramio.com/photo/7004390 
- 8日(火)ダマス滞在
- 9日(水)同じくハイヤーを1泊2日で借り切って(これも100US$(運転手の宿代含む))、アラブの北の果ての世界遺産「 アレッポ」へ1泊観光。ダマスから約300km。あと60km北 上するとトルコ国境。宿泊したホテル名失念 
- 【参考】旅行のクチコミサイト フォートラベル
- http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/aleppo/ travelogue/10390904/ 
- 10日(木)アレッポと周辺の観光後、ダマスへ戻る
- 11日(金)朝8:00頃に妹と別れ、妹宅を運転手付ハイヤーで出て一路南下し、 再度国境を越えてアンマンを通り越しぺトラ遺跡へ。国境を挟み距離約450kmと言う長旅(これもまた100US$ )。ペトラ遺跡近くで予約無しで飛び込んだドミトリー、Petr a Moon Hotel泊。5人用相部屋をちょうど貸切り。朝飯付5人で1万 円以下だったはず。晩飯は近所のホテルへ食いに行った。 結婚式をやってて日本人は珍しがられた 
- General view of the Treasury. Petra, Jordan.  - http://panoramio.com/photo/21705248 
- 12日(土)ペトラ遺跡観光。遺跡内の案内所で今晩のホテルを尋ねたところ、★★★★★のTa ybet Zaman Hotel & Resortを紹介してくれた。最後の晩なので奮発して堪能した 
- Taybeh - Hotel Taybet Zaman - http://panoramio.com/photo/7560170 
- 13日(日)ゆっくりとホテルをチェックアウトしてハイヤーを借りる。30U S$くらいで交渉したと記憶している。死海に寄ったりしつつ、 アンマン・クイーンアリア空港22:00発のRJ180便でバン コックへ出発14日(月)午前中にバンコック空港着。 
- 一目散に空港の日本料理屋へ行って「うどん」を喰った
--Details--
12月7日、パルミラ観光
シリアは男尊女卑のイスラム教国なので街中には女性はまったく居
たまーに女性が居ると真っ黒な頭巾を上から下まで被っている(
そこにtanakabucho一行である。
妹とその友達も連れているので「男tanakabucho以外は
みんな羨ましそーぅに見てたので堂々と連れてゾロゾロと道の真ん
しかしながらさばき方は結構大変で、レストランに入る度に「
パルミラは273年に陥落、廃墟になりその後放置されたとある。
文明の源、チグリス・ユーフラテス川も今はイラク。
キャラバンの当時に流れていた悠久の時間は、
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(2)
12月9日~10日 アレッポ観光
アレッポの名産品はオリーブ石鹸だ(沢山買い込み過ぎて、
アレッポはダマスにつぐ大都市で、ヨーロッパの入口、
シリアは社会主義国でスーパーマーケットのようなものは無いので
アレッポの巨大スークに迷い込むともう異次元だ。
日本人を見かけると、
ホテル名は失念したが、市街中心部の綺麗なホテルに泊まった。
ベルボーイは我々を部屋に案内した時に「私の英語がpoorで済
知らない世界に来ていると言うことを実感する瞬間である。
アレッポ城は高台に築かれた広大な城で、
ひとりだけ離れて歩いている時に、アラブ人2カップル集団とすれ
マルハバはアラビア語口語体の、こんにちわである。
アッサレーム~はイスラム共通の挨拶で、「神の御加護のもとに」
言葉を多少なり覚えていれば海外生活での安全度合いは高まる。
連れのLady達はグラマラスで美人だったがきっと今頃はジャン
ホテルの窓からカルナック(遠距離バス会社)
アレッポから数十km北の街や城、モスクなどにも行ったのだが、
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(3)
シリア面白話①
シリアの紙幣には銀行のスタンプが押してある。
100US$札が数枚あったが1/3ほどが偽札だった。
かつて精巧なコピーを誇ったSuper-Kなら我々一般人にはわ
が、さすがに使えるのはシリア国内だけ。
「あと何枚か有るからお兄ちゃん、交換して」と妹からtanak
駐在者は余り旅行など行く機会が無いから、偽100US$の使途
ちなみにシリアの正式通貨はシリア・ポンド。
しかしさすが悪の枢軸国シリア。
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(4)
シリアがもうすぐ壊れそうなので、アラブ探検記後半戦を書いておこう。
1998年12月11日(金)、ダマスカスから国境越え→ヨルダンの首都アンマンを越えてかの「ペトラ遺跡」まで、アラブ人運転手をいつもの100US$で雇った。
運転手の名前はアブ・シャーディ。シャーディの父、と言う意味だと言っていたが、シャーディの意味は忘れた。
ペトラまでは直線でも370km、道のり450kmと言う長旅だ。国境まで120km位なので所要1.5h~2h、国境でトラブって2h掛かったとしてここで昼、残り330kmを時速80kmで走って4h。夕方遅くにはペトラに着くだろうと気楽に計算した。
妹がなけなしのカリフォルニア米を炊き、海苔も具も無い塩むすびを作ってくれた。弁当に有りがたく頂き、ワゴン車に乗り込む。ワゴン車はDAEWOOかHyundaiの韓国車だった。
妹と別れ、さてこれからはペトラ遺跡観光を主とする後半戦の始まりだ。
ペトラ遺跡にこだわったのは勿論、インディ・ジョーンズ/最後の聖戦の舞台になった場所だからだ。ジョーンズの親父ヘンリー(ショーン・コネリー!)と2人で馬に乗り、シークと呼ばれる、まさに神の鉄槌一撃で出来たかのような岩の間の細い通路を走り切ると紅色に光る姿を現すエル・カズネ(宝物殿)。
垂涎の地であるここに行くのに、今回の機会を逃す手は勿論無かった。
車はダマス市街から南下し、やがて国境。家族を車に残して手続きをしに行く。運転手は自分の分だけ手続きをする。何が会話されているのか皆目わからん事務所で5通出したパスポートの内、30~40分待たされて帰って来たのは4通だけで、お袋の分が無かった。もう1通有ると尋ねるがなかなか埒(らち)が開かず、かと言って放置されているわけでも無いのでさらに30分ほど待ってもう一度「5通目のパスポートをくれ」と言った。事務所で腰かけて待っているとその内、ジャパニーズ!と呼ばれたので出頭(?)すると、本人を連れて来いと言う。
車に戻り、本人を連れて来て見せると途端にOKになり、パスポートが返却された。
車に戻ると運転手が「何か有ったのか?」と聞いた。助けろっての、困ってんだから。
その昔、日本赤軍も通ったであろう、この国境。
思うに、赤軍にTanaka
Kazuo(お袋の名はカズヨ)みたいなブラックリストがあって、日本人の名前なぞ良くわからんアラブ人が警戒したのか知らんが、お袋は世界でも有数の安全な人物であることはその姿を見れば一目瞭然であろう(余裕の(笑))
ともかくこうして、国境でトラブって2h、は的中したものの社会主義国・独裁国家から観光立国・資本主義のアンマンへ再入国することが出来た。車はアンマン市街に向けて砂漠の間を南下する。
注) アンマンへ再入国の地図の通り、アラブの地図にはイスラエルと言う国は存在しない
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シリアの入国カード。固くてでかくて邪魔だった | 
アンマン市街からペトラ方面へ南下する道路は2つある。砂漠の間をひた走るThe
King's Highwayと、死海沿いを走るもうひとつの道だ(名前失念)。The
King's Highwayは飛ばせるが景色が単調(砂漠のみ)なので運転手に指示して死海沿いの道を走らせる。
時間が少し有りそうなのでカラク城に寄り道することにした。十字軍の城だ。運転手に言うとOT(Over
Time)は+30$とか言って来たので確か半額位で交渉した。古く広大で、且つ生活感も感じる不思議なお城だった。壁画(天井画)が綺麗な教会にも寄った覚えがある。
確かこの辺で夕方16時頃になり辺りも薄暗くなり始めた。
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カラク考古学博物館の入場券。どうやら博物館に入ったらしい | 
車はすぐに暗闇の中を突っ走り始めた。街灯も無い本当に漆黒の闇をぶっ飛ばすので怖いが、慣れてるんだろう、と信頼する(しか無い)。
ペトラが近づいて来たのでアブ・シャーディに、安いホテルを教えてくれと頼んだ。
着いたのはPetra
Moon
Hotelだった。HitしたWebサイトで見ると立派なホテルだが当時はドミトリーの安宿だった。チップを渡してアブ・シャーディは消えた。
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物持ちが良いというか、Petra
    Moon Hotelの名刺があった | 
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何とホテルの名刺の裏にあのアブ・シャーディ直筆サインが!  | 
普段なら5人相部屋になる部屋を丸ごと借りた。全員で1万円はしなかった。
晩飯は奮発することにしてすぐそばの☆☆☆☆ホテルへ歩いて行き、そこのレストランで喰った。ちょうど結婚式をやっていて日本人は珍しがられた。中華かなんか喰ったと思われる。
部屋に戻るとコンセントの形状が違い、ビデオカメラのバッテリーを充電出来ないことがわかった。近所の店を覗くがお土産屋みたいのばかりで電気部品など置いていそうもない。
仕方なく(と言うか当然)、TVと暖房を除けば唯一の電気器具であるライトスタンドを分解して線を使わせて頂いた。旅には小型のプラスドライバーとビニールテープは必須アイテムである。翌日泊まった方には灯りが点かなくて済まなかった。
翌朝ホテルでメシを喰い、何と昼飯の弁当まで支給された(ポリ袋にコッペパン1個とキュウリ1本(貧乏バックパッカー向けだね(泣)))。
ペトラ遺跡はもう目の前。
さーていよいよぼったくりPetraランドへ突入だ!
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(5)
もうすぐ壊れそうなシリアからは既に脱出済み。アラブ探検記、後半も後半に突入!
もうすぐ壊れそうなシリアからは既に脱出済み。アラブ探検記、後半も後半に突入!
ペトラは凄いところだ。まず入場料がべらぼうに高い。幾らかは忘れたが何でも急に何十倍に値上げされたとかで、確かTDL以上の価格設定だったと記憶している。次に乗り物である。ラクダ、馬車、馬、ロバなど揃っているが皆協定価格だからどこで乗っても割高だ。観光立国も外国人からのぼったくりじゃ困る。
まずは入場券を買いシークと呼ばれる崖の間の通路を歩きでスタートする。早速馬車に乗った観光客が追い越して行く。
やがてエル・カズネ(宝物殿)が現れる。太陽が当たると絶妙な紅色に映える、一枚の岩盤を掘った荘厳な遺跡だ。
映画ではインディが中に入り様々な仕掛けを解くのだが、中には部屋がひとつあるだけだ。
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| 超巨大な彫り物だ | 
ここから先のペトラ「園内」は広大だ。
地図を使いながら当時の行程を説明すると、①から入ってシーク通路を通り④がエル・カズネ。ここでラクダ5頭のキャラバンを組んで、確か22の辺りまで移動。ここから登り道に入るのでラクダからロバに乗り換える。僕のロバに乗ってくれ、尻が大きい、乗り心地が良い等々喋りまくる小僧どもに一斉に囲まれる。
そんな時は「ハラース!」と言う。シャラップ、静まれ小僧ども!のアラビア語である。
一瞬にしてシーンとなる。
その中から小僧の性格が良さそうで一番でかいロバを選んでまずお袋を乗せる。
そうして順々に小僧とロバを選んで家族を乗せて行く。
手綱を引かれたロバは隘(あい)路をザクザクと登る(ラクダもロバも、アラブ人小僧の御者が付いている)。歩いて登る人も居るが相当きつい。tanakabuchoも撮影に徹しようと当初歩きで登ったが途中でバテて、リュックサックを小僧に背負わせた。やがて24番、丘の上にエル・カズネに似た彫り物が現れる。
ロバは登りだけで帰路(下り)は危険なので人を乗せない。
階段をひたすら下るので娘たちに段数を声に出して数えさせていたら「日本語は久しぶりですぅ」と放浪ジャパニーズ(♂)が寄って来た。
お仕事ですか?と聞くので
「私はヨルダンの日本大使館員だがある特別な任務についていて、シリア政府にばれると殺されるからここで日本人家族と会ったことを他人に話してはならない」と真面目な顔で言ったら信じてしまった。
確かに、6歳と4歳の娘を連れて日本人家族が観光に来ているとは思わないところだ。
階段を下まで降りて来て22の考古学博物館を覗き、7~13の墓の群れを見つつ、6番付近に有った観光案内所で今晩のホテルを紹介してもらった。
TAYBET ZAMAN Hotel & Resortがお薦めだと言うので、5ツ☆で値段は張るが最後の晩なので贅沢しようと、そこに決めた。
夕方になると協定価格にも値引きが入って来る。
帰路の④から①までは少々ディスカウントした馬車で移動した。シークのごつごつの石畳を結構なスピードで、馬車はかっ飛ばした。強行軍だったがラクダ、ロバ、馬(馬車)となかなか面白い行軍であった。
ペトラ園外へ出てホテルへ戻り、預けておいた荷物を積んで、タクシーでTAYBET ZAMANへ移動した。
以上、ペトラ遊園地報告終わり。
確かに、6歳と4歳の娘を連れて日本人家族が観光に来ているとは思わないところだ。
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| まさにキャラバンを組んだ | 
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| この年でアラブツアーとは立派! | 
階段を下まで降りて来て22の考古学博物館を覗き、7~13の墓の群れを見つつ、6番付近に有った観光案内所で今晩のホテルを紹介してもらった。
TAYBET ZAMAN Hotel & Resortがお薦めだと言うので、5ツ☆で値段は張るが最後の晩なので贅沢しようと、そこに決めた。
夕方になると協定価格にも値引きが入って来る。
帰路の④から①までは少々ディスカウントした馬車で移動した。シークのごつごつの石畳を結構なスピードで、馬車はかっ飛ばした。強行軍だったがラクダ、ロバ、馬(馬車)となかなか面白い行軍であった。
ペトラ園外へ出てホテルへ戻り、預けておいた荷物を積んで、タクシーでTAYBET ZAMANへ移動した。
以上、ペトラ遊園地報告終わり。
アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(6 最終回)
1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルであるタイベッ
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人
断る必要もなくどうぞ、
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマンQueen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、
翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャータ
死海と言うのはたいそう不思議なところで、
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみ
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆
死海の水は噂通り辛かった。
夕方、17時過ぎくらいにQueen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。
やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内
当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。
- 外貨ぼったくり&外貨亡者
- ヨルダンは観光立国と名乗っているだけあって英語が通じて便利(シリアでも通じたが) 
- 主食が豆なのでメシが結構厳しい。世界各国各地域いろんな主食が有るが、 豆のところが旅行者には一番キツイのではないかな?(次女(当時4歳)は「 こんなごはんもうやだ!と1回だけ騒いだ」) 
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| 平和だったあの頃の町並み | 
帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(
娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのお
人類が最初に住みついた町ダマスカス
長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みませ
-了-
2014年12月18日木曜日
トワイライトエクスプレス スシ24
知らなかったんだがトワイライトエクスプレス客車3両目のスシ24形食堂車は485系の改造だそうだ。どうりで1両だけ電車特急みたいな屋根上なわけだ
http://youtu.be/X3pu3OQDlvw
2014年8月 金沢駅で撮影
http://youtu.be/X3pu3OQDlvw
2014年8月 金沢駅で撮影
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