【湾岸編】
出発日前日にお袋が成田から単身到着。娘に逢いたい一心の親心は初めての単身海外旅行も可能にする。我が家で1泊。
翌日はいよいよ出発日。タクシーでバンコック国際空港へ行き、ロイヤルヨルダン航空の飛行機に乗り込んだ。バンコックから西へ飛ぶ、初めてのフライトである。
前方に数席だけ用意された禁煙席に座り機内後方を見るとヒゲ・ターバンのアラブ人がほぼ全員タバコを吸っていて既に煙は機内に充満し、目を凝らすと奥に行くに従ってどんどんどんどんアラブ度が濃くなっていくようであった。
やがて機が飛び立ち、しばらくすると前方のスクリーンに方位磁針の針のような矢印が現れた。常に微かに回転している。
やがて謎が解けた。客席から何人もがドタドタと立ち上がり、通路に個人所有の玄関マットみたいなものを敷いて、全員矢印の方に向いてお祈りを始めたのである。そう、この矢印はメッカの方角を示していたのであった。
イスラム教のお祈りは日に5回、日々時刻が決まっていてキッチリと行われるから、アンマンに着くまでの間に数回、同じ光景を目にする羽目になった。
やがて機は降下を始め、おやおやまだアンマンに着くには早いぞ?と思っていたらUAE(アラブ首長国連邦)のシャルジャ空港に着陸した。スチュワードに聞くと給油のためと言うことだった。
サンタクロースの絵が描かれた(確か)フィンランドの飛行機が隣に停まっていた。
再び機は離陸したがここからは「湾岸」である。クウェートを目指して飛び、途中からサウジ・イラク上空へ、左へ旋回する。スクリーンに現在地が地図とともに映し出されるとまさにクウェート手前。少しだけ緊張した。
(続く)
2011年1月7日金曜日
2011年1月6日木曜日
陸路国境越え~連合赤軍と同じルートでシリアへ入る~プロローグ
【プロローグ】
古い話だがもう2度と行かないだろうし、かの地はたぶん何も変わっていないだろうから、今更だけど僻地好きtanakabuchoの冒険記録を書いておこう。
時は1998年、tanakabucho一家がタイ・バンコックに駐在していた頃...
tanakabuchoには2つ下の妹が居て、作業療法士として日本の病院で働いていた。その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
普通の家庭だったtanaka家は、息子はバンコックで、娘はシリアで働くという国際一家になり、妹はどこにあるかもわからないような、シリアという国の首都:ダマスカスに赴任した。
しばらくして日本にいるお袋から、「シリアにいる娘に会いに行きたい」と国際電話が入った。
確かに日本から行くよりも、バンコックからの方が行き易いに違いない...そうなれば行かないわけにはいかん! と言うことで、tanakabuchoはバンコックでシリア行きの調査を始めた。
バンコックは国際都市。中でもスクンビット通りはソイ(小路)の数字の若い方からアラブ人街、韓国人街...と住み分けていて、ソイ31から49位が日本人街。私はソイ39に住んでいた。
ソイ1はアラブ人街。一歩踏み入れるとヒゲにターバン、水たばこの男どもがズラリ。
そのそばの旅行代理店に入り、シリアへ行きたいのだが、と告げた。シリア?スペルは何?と聞かれるほど当然ながら誰もあまり知らない。でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。
店を出ると早速アラブメシ屋に入り、食い物の調査を行う。主食は豆であった。
ついでに水たばこの吸い方やアラブ式コーヒーの作法なども徐々に把握する。一時期は会社で仕事が終わると毎日ソイ1に向かっていた。
数日通ったある日、バンコックからシリアへ入るには、アンマン経由とドバイ経由の二つ有る、とNoiが言った。アンマン経由の場合はロイヤルヨルダン航空、後者はGulfAirだと言う。この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
その結果、バンコック→アンマン→ダマスカスの空路往復なら6日間で行けることもわかった。
数日後、Noiが言った。ヨルダンのVISAはバンコックで取れるが、シリアのVISAは取れない。取れる最寄りの国はインドネシアだ、と。
社会主義のイスラム国家。愕然としたが、よく聞くと国交が有る日本なら取れると言う。
何日か後に、日本へ出張で帰る知人の日本人女性がいた。彼女(タイあだ名はngaam)
にパスポートを預けるしかない。ngaamは快諾してくれ、tanakabucho一家4つのパスポートを持って日本へ旅立った。成田にはお袋が自らのパスポートを持参して迎え、ngaamはtanaka家5つのパスポートを持って僻地専門の旅行会社「西遊旅行社」へ行き、見事に数日後、シリアのVISA付きパスポートを携えてバンコックへ戻って来た。ともかく最大の懸念事項を突破した瞬間であった。
その後は会社の休みを取るための準備と、旅程作成に取り掛かった。
お袋は折角だから1日でも長く居たいと言うし、tanakabuchoはtanakabuchoで、インディージョーンズ最後の聖戦でハリソン・フォードと親父役ショーン・コネリーが馬で乗り付けるヨルダンの「ペトラ遺跡」へ何としても行きたかったので、フライトスケジュールと首っ引きの結果、会社を9日間休ませてもらわなければならなくなり、仕事もアタフタし始めた。
一方、自称インディージョーンズとしては装備も整えねばならず、キャメルのネルシャツ、ハッシュパピーのデザートブーツ、そしてもちろんインディー風帽子などを買い揃え、準備に余念がなかった。迷ったが、ムチは買わなかった。
当時パソコン通信は出来たが、妹の居るシリアという国は後に悪の枢軸国と言われるように社会主義・鎖国状態で情報統制は厳しく、妹とは滅多に連絡が取れなかった。たまにつながっても電話線がゥワーンとしていて、さながら盗聴されているみたいだった。
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、ダマスカスへの到着日を伝え、合流するダマスカス市内のホテルの名前を聞くことが精一杯だったようだ。そんな状況下で徐々に出発の日が近づいてくる。
確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~バンコック便がキャンセル待ちで取れていなかった。Noiの顔色も曇りがちだ。とは言えお袋には成田~バンコックのビジネスクラスのチケットを送ってあり、もうすぐ来てしまう。
もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。これによって土壇場に、あとプラス2日の休暇を取らねばならなくなり、社長にお願いしに行って11日間の休みをもらった。
タイ人スタッフは応援してくれた。お袋はもちろん延長歓迎であった。
ともかくも準備は揃った。と言っても手もとに有るのはバンコック~アンマンの往復チケットのみで、肝心のアンマン~ダマスカスのフライトチケットは無い。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たなければならなかった。
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、と腹を決めた。地図を見る限りでは行けそうだった。とは言え皆に言うと心配するからアンマン到着まで内緒にすることにした。
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。
そういうわけでバンコック~アンマンの往復チケット以外はブッキング無し、しかも連れは女子供(娘ふたりは小1と年中)だけと言う、恐るべし家族連れ中東旅行がスタートするのである。
【プロローグ終わり】
古い話だがもう2度と行かないだろうし、かの地はたぶん何も変わっていないだろうから、今更だけど僻地好きtanakabuchoの冒険記録を書いておこう。
時は1998年、tanakabucho一家がタイ・バンコックに駐在していた頃...
tanakabuchoには2つ下の妹が居て、作業療法士として日本の病院で働いていた。その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
普通の家庭だったtanaka家は、息子はバンコックで、娘はシリアで働くという国際一家になり、妹はどこにあるかもわからないような、シリアという国の首都:ダマスカスに赴任した。
しばらくして日本にいるお袋から、「シリアにいる娘に会いに行きたい」と国際電話が入った。
確かに日本から行くよりも、バンコックからの方が行き易いに違いない...そうなれば行かないわけにはいかん! と言うことで、tanakabuchoはバンコックでシリア行きの調査を始めた。
バンコックは国際都市。中でもスクンビット通りはソイ(小路)の数字の若い方からアラブ人街、韓国人街...と住み分けていて、ソイ31から49位が日本人街。私はソイ39に住んでいた。
ソイ1はアラブ人街。一歩踏み入れるとヒゲにターバン、水たばこの男どもがズラリ。
そのそばの旅行代理店に入り、シリアへ行きたいのだが、と告げた。シリア?スペルは何?と聞かれるほど当然ながら誰もあまり知らない。でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。
店を出ると早速アラブメシ屋に入り、食い物の調査を行う。主食は豆であった。
ついでに水たばこの吸い方やアラブ式コーヒーの作法なども徐々に把握する。一時期は会社で仕事が終わると毎日ソイ1に向かっていた。
数日通ったある日、バンコックからシリアへ入るには、アンマン経由とドバイ経由の二つ有る、とNoiが言った。アンマン経由の場合はロイヤルヨルダン航空、後者はGulfAirだと言う。この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
その結果、バンコック→アンマン→ダマスカスの空路往復なら6日間で行けることもわかった。
数日後、Noiが言った。ヨルダンのVISAはバンコックで取れるが、シリアのVISAは取れない。取れる最寄りの国はインドネシアだ、と。
社会主義のイスラム国家。愕然としたが、よく聞くと国交が有る日本なら取れると言う。
何日か後に、日本へ出張で帰る知人の日本人女性がいた。彼女(タイあだ名はngaam)
ngaamが取って来てくれて念願かなった シリアの入国VISA S.A.Rとはシリア・アラブ・リパブリックだ |
その後は会社の休みを取るための準備と、旅程作成に取り掛かった。
お袋は折角だから1日でも長く居たいと言うし、tanakabuchoはtanakabuchoで、インディージョーンズ最後の聖戦でハリソン・フォードと親父役ショーン・コネリーが馬で乗り付けるヨルダンの「ペトラ遺跡」へ何としても行きたかったので、フライトスケジュールと首っ引きの結果、会社を9日間休ませてもらわなければならなくなり、仕事もアタフタし始めた。
一方、自称インディージョーンズとしては装備も整えねばならず、キャメルのネルシャツ、ハッシュパピーのデザートブーツ、そしてもちろんインディー風帽子などを買い揃え、準備に余念がなかった。迷ったが、ムチは買わなかった。
当時パソコン通信は出来たが、妹の居るシリアという国は後に悪の枢軸国と言われるように社会主義・鎖国状態で情報統制は厳しく、妹とは滅多に連絡が取れなかった。たまにつながっても電話線がゥワーンとしていて、さながら盗聴されているみたいだった。
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、ダマスカスへの到着日を伝え、合流するダマスカス市内のホテルの名前を聞くことが精一杯だったようだ。そんな状況下で徐々に出発の日が近づいてくる。
確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~バンコック便がキャンセル待ちで取れていなかった。Noiの顔色も曇りがちだ。とは言えお袋には成田~バンコックのビジネスクラスのチケットを送ってあり、もうすぐ来てしまう。
もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。これによって土壇場に、あとプラス2日の休暇を取らねばならなくなり、社長にお願いしに行って11日間の休みをもらった。
タイ人スタッフは応援してくれた。お袋はもちろん延長歓迎であった。
ともかくも準備は揃った。と言っても手もとに有るのはバンコック~アンマンの往復チケットのみで、肝心のアンマン~ダマスカスのフライトチケットは無い。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たなければならなかった。
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、と腹を決めた。地図を見る限りでは行けそうだった。とは言え皆に言うと心配するからアンマン到着まで内緒にすることにした。
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。
そういうわけでバンコック~アンマンの往復チケット以外はブッキング無し、しかも連れは女子供(娘ふたりは小1と年中)だけと言う、恐るべし家族連れ中東旅行がスタートするのである。
【プロローグ終わり】
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