2015年12月29日火曜日

ココストアとエブリワンが有った頃の風景

ココストアとエブリワンが有った頃の風景

「am/pmが有った頃の風景」に続いてココストアバージョンをUPしました。
皆で昭和を偲ぼう!

2015年11月28日土曜日

2015忘年会くじ

今年の運用部忘年会(12/17(木)開催)くじは過去開催のレジェンドに敬意を表し、
「ネ申7」向け
「選抜メンバー」向け
「研究生(一般の民)」向け
3つのくじに分類された。
くれぐれも間違ったくじを引かないよう、且つ早い者勝ちなので遅れることの無いよう、エントリー願う。
なお社外のメンバーへはパスワードを含めて、状況連動を。
登録・取り消しに使うパスワードは別途ツイートにて。幸運を祈る!

----
対象者(順不同):柴田さん、フナバシ、赤沼、宮臺、板長、東雲、坪田

----
対象者(順不同):PFU岡田、隼、枝松、デビル、二瓶、TTSS竹澤、大塚教官、松丸、山ちゃん

----
対象者は上記以外の全員
----

2015年11月2日月曜日

オホーツク決死隊その4(最終章)

いよいよ北の大地を去る15年10月13日(火)。これまでの想い出がフラッシュバックして、網走や知床の町はだいぶ前のことのようで、妙に懐かしい。
帯広発のフライトは夕方。15時にレンタカーを返せば良いから、まだまだたっぷり時間が有る。
熟考の結果、オンネトー湖まで遠征することにした。
オンネトー湖は阿寒湖の手前で足寄町にある。帯広からは100km以上有るが、幸い道東自動車道で足寄まで行けるので時間を稼げる。
足寄ICで高速を降りて程なく足寄駅交差点。国鉄池北線時代からの駅舎が残り、中で食堂が営まれている。併設されている道の駅は松山千春臭い。千春の家へ行くまでの趣味は無いので自衛隊分屯地の脇を通ってオンネトーへ向かう。
実に潔い看板である。日本人みなこう有るべし!
正直もう、北海道ドライブの車窓には飽きてしまった。だってどこへ行っても同じ景色なんだから。
オンネトーに近づくに連れて標高を増し、紅葉の色づきも濃くなってきた。着いたオンネトー湖からは雌阿寒岳と阿寒富士が綺麗に観えた。

写真はここに!


いよいよ最後の総仕上げ。十勝帯広空港の近くまで戻ってキッチンなるとでラーメンを喰い、旧広尾線「愛国から幸福」を辿った。

映画で言えばミラ・ジョヴォヴィッチ主演「ジャンヌ・ダルク」のような、前半後半で動と静、2つに割れたような今回の旅を振り返ってみよう。

--------------------
10/7(水)出発前日 天候:余り良くない
  • 台風23号が何故か北方領土方面へ向かう
  • フライトを旭川行きへ変える
10/8(木)出発日 天候:羽田 雨、旭川 微嵐、網走 嵐 網走泊
  • 女満別行きフライトは欠航。滅茶苦茶揺れながらも旭川空港に着く
  • レンタカーで網走へ移動中に廃駅間近の石北本線白滝カルテットを観る
10/9(金)天候:嵐 ウトロ泊
  • 大荒れのオホーツク海を左に観ながら知床ウトロ
  • 知床峠を越えて羅臼から国後島を観る。ウトロへ戻る知床峠が嵐のピーク
  • 知床旅情を知床で唄う
10/10(土)天候:晴れ 網走泊
  • 一旦北見と網走市内へ出て、好天の摩周湖
  • 目を付けておいた店で毛ガニを発送
10/11(日)天候:晴れ 釧路泊
  • サロマ湖サンゴ草→網走監獄で収監中の額田を発見
  • 知床斜里でイクラ丼。これがオホーツク料理の総仕上げ
  • 弟子屈経由釧路。厚岸牡蠣祭りの情報を入手する
10/12(月)天候:晴れ 帯広泊
  • 釧路から一旦根室方向へ進み、厚岸で牡蠣
  • 再び釧路経由で帯広。インデアンカレー→第1回タナカップ→回転寿司まつりや
10/13(火)天候:晴れ
  • 帯広→足寄→オンネトー湖
  • 帯広へ戻り旧愛国駅と旧幸福駅
--------------------
根室を除けばほぼ道東を征服した5泊6日。心残りが有るとすれば、知床ウトロでフネに乗れなかったことだけだが、これくらいは次回の楽しみに残しておくこととしましょう!
Thanks a lot for everyone of Hokkai-Dominの皆さん!

写真はここに!

(了)

2015年10月31日土曜日

オホーツク決死隊その3(第1回タナカップ)

2015年10月12日(月・祝)ばんえい競馬帯広競馬場第6R(発走時刻17:40)は記念すべき第1回タナカップB3-3。
出走馬は
1 サクラユーホー
2 サカノチサト
3 サスガ
4 サカエキング
5 キタノオーラ
6 ファーストクラス
7 タキニシダイヤ
8 ツガルノウンカイ
9 ヤマノレンポウ
10 ミノルユウセン
以上の10頭。人気は3→5→1→4→8の順だ。
15:55の3レース発走時刻に間に合ったので、3〜5Rで初ばんえい競馬の練習。
パドックはコースのすぐ横にある。サラブレッドと違って体重1トン近く、とにかくでかい。ジョッキーも、小型軽量でなくこちらもでかい。
こいつはその名も「ブチオ」。ブチコは中央競馬の人気牝馬
案内窓口へ行き来場したことを告げると、タナカップが終わってから表彰式をやるので来て下さい、とのこと。どうやらプレゼンテーターを努めさせてくれるらしい。同じ個人協賛競馬でも高知けいばよりお得な感じだ。
やがてイルミネーションに灯がともってナイター競馬の様相とともに、お目当て「第1回タナカップ」の発走。

レースはここ(楽天競馬ビデオ・オンデマンド)で

④のサカエ(栄)と栄一の①で買えば簡単に当たったものを、例によってヒネり過ぎて外れ。結果は①→④→③の三連単4,920円の決着だった。
表彰式でサクラユーホー号で優勝した阿部ジョッキーにサインを戴く
ともかく、10/8(木)嵐の帯広に着陸以来、道東をぐるっと回って何とか帯広競馬場へ辿り着き、メインイベントを完了した。そして今晩はいよいよ道東ツアー最後の晩になった。
今夜の晩飯は北海道の回転寿司「まつりや札内店」に決めている。旨い魚を最後に腹いっぱい喰うことにする。
(もう少し続く)

2015年10月24日土曜日

オホーツク決死隊その2

写真はここに!


10月11日(日)天候:晴れ

おーろら号は網走港から姿を消したものの、ウトロ発知床観光船はこの日の午前中も欠航になった。ゴジラ岩観光その他のフネは出航しそうだが波高く寒そうなので諦めて、知床斜里駅から釧網本線に沿って摩周国道を130km、釧路へ下ることにした。
本来今日の宿は根室にしていたんだが、台風崩れの低気圧で根室が水浸しになったので行っても面白くなかろうと釧路に変えた。北海道は地図で見るより走ると長い(特に道東は高速道路が無い)ので、この変更は正解であった。

最後の知床として、道の駅しゃり横の食堂でイクラ丼を喰ったが、喰っても喰ってもイクラが余るのでご飯をおかわりする羽目になった。ここまでの旅程でカニとイクラを2〜3年分は喰った。
斜里駅は知床斜里駅と名前を変えて小奇麗になり、りん子ちゃんが掛けた公衆電話はどこにも見当たらなかった。
でも列車を降りてりん子ちゃんが渡った跨線陸橋はそのままだった。

この風景で異なるのは駅名(古くは「斜里駅」)のみ
昨日通った硫黄山〜摩周湖脇を通り弟子屈。
大横綱大鵬の出身地だ。温泉卵を食す。
シラルトロ沼、塘路湖を経て釧路。
着いた釧路は大都会!であった。既に最果ての地網走が懐かしい。釧路駅もどうにも面白く無い。
フィッシャーマンズワーフMOOとやらへ行くが寂れ過ぎの失敗作。炉端焼き有名店は仰々しいので繁華街の落ち着いた居酒屋で地酒。タンタカ(カレイ)の刺し身が秀逸。


10月12日(月・祝)天候:晴れ

昨晩釧路駅で見つけた成果物は「厚岸牡蠣祭り」。ちょうど今日が最終日だ。
調べてみると釧路から厚岸までは50kmほど(北海道ドライブに慣れたこの時点では50kmなんて鼻クソみたいなもの)。さすがに魚介類の朝飯は飽きたので、地元のパン屋ピーターパンで焼き立てパンを買ってから厚岸に向かう。
厚岸に入ってすぐの地名は北海道厚岸郡厚岸町ルークシュポール。北海道の地名にはロマンが有る。

あさり他の貝も有るようだがホントに厚岸は牡蠣の町。好天の牡蠣祭り会場
タイミング良く牡蠣にもあり付けた。
それではいよいよ、今晩施行されるばんえい競馬帯広競馬場「第1回タナカップ」へ向かう。目指す昼飯は帯広の家庭から自炊カレーを消したと言われる恐るべしインデアンカレーである。厚岸から帯広インデアンカレー札内店までは170km位ある。13時頃の到着メド。カレーを喰ったら次は競馬場だ。
ルークシュポールを経て釧路へ戻り根室本線と一緒に海岸を走って道の駅しらぬか恋問。さらに根室本線と海岸沿いを走り、やがて帯広市。

インデアンカレーはじっくりまったり美味かった。タッパーなどの器を持ってルーだけ買いに来るヒトが絶えない。まさに帯広の家庭の味なんだろう。
(興奮の帯広競馬場へ続く)

2015年10月14日水曜日

オホーツク決死隊

急に発生してどんどんどんどん巨大化した台風23号は何故か道東それも北方領土直撃と言う稀な進路を選んだ。
10/8(木)朝7:25羽田発女満別行きのJALは前日18時頃、早々に欠航が決まった。代替策を練る。台風の真っただ中では有るがともかく北の大地へは着きたい。着けば何とかなるはずだと思った。7:55発旭川行きは飛ぶらしい。早速旭川行きに変え、レンタカーの手配も変えて明日早朝に備える。

翌朝7時に羽田へ着くと、旭川行きは欠航では無いものの天候調査中でチェックインが中断していた。窓口は長蛇の列、嫌な予感。旭川へ飛べなければ最悪新千歳。着いてしまえば鉄道移動も可能だ。
やがて旭川行きは飛ぶとアナウンスが流れ(小躍りして)喜ぶ。
チェックインはその15分後くらいから行われた。安全に着陸出来ない場合は羽田へ引き返すと言う条件付き運航だ。
JAL763 SKY NEXT機材で快適だが山形県上空に差し掛かった辺りから強風でもの凄い揺れ。tanakabuchoの「人生過去揺れBest3」に入る揺れが続く。それでも当機の機長、田中機長の腕は確かだ。安全な着陸と言えたのかどうかはわからないが、ともかくもの凄い強風下の揺れを御して我々を北の大地旭川へ導いてくれた。アメリカの飛行機なら拍手が湧くところだ。

執念の賜物、わずか30分ほどの遅れで着いた旭川の天候は強めの小雨。レンタカーを借りて一路網走を目指す。
カーナビが示したのは旭川紋別自動車道ルート(全線無料)。このルートは石北本線沿い、となると来春廃駅が決まっている白滝トリオ駅のすぐそばを走ると言う奇跡!に遭遇することになった。
実はこのトリオ駅、今回の旅行で是非立ち寄りたかったが女満別空港から飛ばしても往復4時間掛かるので半ばあきらめていた場所。それが旭川へ飛んだが故に沿線に現れるという僥倖である。
ちなみに石北本線は台風の嵐で今日は終日運休が決まっているから列車に出会えることは出来ない。

上白滝駅
西側(旭川寄り)からまず上白滝駅。
下り7:04発と上り17:08発の1日1往復しかない(初電=終電)と言う日本一列車の本数が少ない駅。

旭川方面隣の上川駅との間は何と34kmも離れていて(その間の駅は既に無くなってしまった!)、上白滝駅17:08発の上り列車は1時間8分も掛けて隣駅上川駅まで走る。

次の白滝駅は廃駅にならず残るのですっ飛ばして、その次は旧白滝駅。上り1本、下り3本。
旧白滝駅を定期券で使い遠軽高校へ通う女子高生が卒業する来春(2016年3月)に、この駅自体が廃駅になると言うもの悲しい駅でも有る。

--引用--
「旧白滝駅」の唯一の利用者の女子高生の卒業とともに廃駅へ…。 : 鉄道ファン悲鳴!北海道の人気『秘境駅』が沢山廃止になりそう… http://matome.naver.jp/odai/2143757001706904401/2143757388911980403
----

旧白滝駅
お隣は下白滝駅で本数は旧白滝駅と同じ。各駅舎には寄せ書きノートが置いてあって、「上」「旧」「下」白滝廃駅トリオ(または白滝駅を含めて白滝カルテット)の人気の高さが伺える。

下白滝駅
下白滝駅辺りで完全に嵐になった。落ち葉が舞い暴風雨が真横に叩きつける。車も強風にあおられる。
とりあえずオホーツク海に近づいてオホーツク料理の昼飯を喰わねばと、車を東へ東へと走らせる。強風に冠水、網走湖西岸の峠越えが難所だった。少し後に通行止めになってしまった道だ。
ともかくカニ海鮮丼を喰ってから道の駅流氷街道網走に寄ると、知床観光船(流氷期は流氷観光船になる)おーろら号が係留されていた。本来は知床ウトロに居て、明日の朝我々を知床観光に誘ってくれるはずだったフネだ。聞けばおーろらが網走へ逃げて来るのは26年振りと言うことで、観測史上最強の台風の恐ろしさがわかった(そのど真ん中に居るモノ好きな旅行者も問題ですが)

おーろら号。奥に見えるのは寅さんでもお馴染みの帽子岩
そうそう、車を走らせている内に台風23号は温帯低気圧に変わり、台風情報が発表されなくなってしまった。台風のままずっと北の方へ行って欲しかったのだが、温帯低気圧になってどっしり停滞してしまった。
台風じゃなくなったからと言って風雨は変わらない。温帯低気圧になろうとも台風情報に準じた情報を継続してくれないと渦中に居る者は困るのである。

カニ三昧(毛ガニ、タラバガニ、花咲ガニ、ズワイガニ)の晩飯で網走泊。幸い高台で安全な宿だが暴風雨は一晩中窓ガラスを叩きつける。
夜の街(町)へ繰り出すのは自粛。

写真はここに!


10/9(金)天候:荒天
網走から釧網線の駅を辿りながら知床ウトロへ向かう。おーろらは網走に居るし観光船は全滅だが、知床峠を越えて羅臼へ行くなら今日しか無い。
知床斜里を過ぎてオホーツク海を左に見ながら知床岬先端へ向かって進む。海は大しけの日本海と勘違いするような大暴れ状態。誤って落ちたら即死。
やがてオシンコシンの滝。相当降ったらしく水量がもの凄い。

初めてやって来た知床ウトロの町。
トップシーズンは観光客でお祭り騒ぎなんだろうが、今は(特に今日は)閑散としていて営業している店も少ない。
寅さん知床慕情で「スナックはまなす」になった民宿酋長の家「ちかる」は健在だった。
ついでに書くと、リリーと初めて出会う寅さんが網走で初商売やった場所も健在だった。

淡路恵子がいい味出していた「スナックはまなす」ロケ地
網走で寅さんが「レコード歌手の」レコードを売った場所
知床半島の、ウトロの反対側「羅臼」まで行くことにする。知床横断道路(国道334号線)は冬季数メートルの積雪になり毎年11月初旬から4月下旬まで封鎖されると言う、走れる期間が日本一短い国道だ。
今日の知床峠は大雪でなく暴風雨。しかしここでも僥倖は起きた。羅臼方面の雲は明るいのである!
標高738mの峠を越えて、希望を胸に羅臼方面へ下る。すると山の谷間から海が見え、明らかにその先に島が見えた!
着いた羅臼の町はほんの少々小雨の曇り空だった。
少しでも明るい内に、と急いで羅臼国後展望塔に行くと国後島が見えた!
羅臼国後展望塔で見た北方領土と根室海峡に立つ虹。
ほんの数分後には雲が厚くなって北方領土は見えなくなってしまった
そして何と根室海峡に虹も掛かった。
展望塔の中には北方領土の資料が有る。そして知床旅情が流れていた。思わず口ずさんだ瞬間であった。

ウトロへ引き返す途中の知床峠の嵐は凄かった。
慣れも有っただろうが、嵐はこの辺がピークだったように思う。

ウトロのホテルで晩飯。カラオケスナックへ行って念願の「知床旅情」を合唱する。ついでに防人の詩と北方領土を護るウルトラ警備隊も唄う。飲み過ぎて酔っ払って寝る。深夜になっても雨は部屋の窓を叩いていた。

写真はここに!


10月10日(土)天候:晴れ!
あれほど暴れていたオホーツク海が嘘のようにおとなしくなった。
Before
After















今日は北見まで出てレンタカーを交換する都合が有る。約120km、2時間半を想定。ウトロのホテルを8時過ぎに出て、休憩を挟んで10時半過ぎに北見駅。少々酒が残っていたのでドライブインで昼寝。14時過ぎに女満別空港を通過し摩周湖まで南下。トップシーズンは霧が多くて見られない日が多いらしいが今日はくっきり。見事なカルデラ湖だ。
第3展望台からの摩周湖
道中通る川湯温泉の近くは硫黄山からの硫黄臭がもの凄い。トウフツ湖まで戻ってオホーツク海沿いを再び網走へ戻る。オホーツク料理の晩飯、網走泊、バイキングの朝食。

写真はここに!


10月11日(日)天候:晴れ(続く)

2015年9月17日木曜日

TdT(ツール・ド・東北)2015珍道中記録

【プロローグ】

TdT2015

TEAM颯 Are Go!
今回の参加選手ノミネートは以下のように行われた。

昨年完走の二瓶、昨年功労の中山がまず決定。
次に、昨年tanakabucho(以下、TB)に自転車を貸してくれた東雲。
最後の1人は、当初はアスリート宮臺だった。しかし宮臺から受け取った返事には「前日が結婚式なんです」と有った。でも行きたい、と。

馬鹿な宮臺はめぐみ妻に伝えたところ「行ってくれば」的返事だったようだが、新郎が式の後片付けも無しに自転車大会に飛んだと有っては後々夫婦仲、家族仲はたまた親戚仲にヒビが入るどころか、最終的には宮臺家と神道家の崩壊に繋がらないとも限らない。
事態を重くみた親心溢れるTBは東雲にもお願いして、宮臺を思い留まらせることに奔走した。

さて、代わりの1人枠。
聞けば宮臺家挙式招待@軽井沢はTBと堀内で有った。巻き込むしか無かった。
堀内は60km出場をあっけなく、何の躊躇も無く快諾した。

かくして参加者計5名、東京発3名、東京発軽井沢経由2名の2チームが編成された。
自転車を持っていないTBと堀内は、宮臺夫妻の自転車を代理出場させると言う勝手な名目で宮臺夫妻から自転車を借りた。
夫の自転車「ブラックサンダー号」にTBが、めぐみ妻の自転車「オレンジサンダー号」に堀内が乗ることになった。
個々にWebエントリーも済ませ、QRコードを入手した。
順風満帆、全ての準備は整ったかのように見えたが、まだ最大課題が残っていた。

それは軽井沢から石巻への移動だった。

宮臺家挙式は石の教会での結婚式が17時、湯川ガーデンテラスでのフレンチ・ディナーのお開きが20:30。着替えて出発は最短で21時。机上計算で移動に所要6時間。21時出発必達、3時到着必達がノルマになった。但し3時に着いたとしても仮眠出来るのは2h程度である。

日暮里で12時に堀内とオレンジサンダー号を積んだ我らが愛車「ラビングラビット号」はツール・ド・東北へ行くのに何故か方向が異なる関越道をひた走り、定刻15時過ぎに軽井沢のホテル・ブレストンコートに着いた。今晩は運転をするから披露宴では酒を呑めない。呑むなら今しか無い、と言うことで礼服に着替えた後はラウンジで軽井沢高原ビールを戴く。2杯呑んで気持ち良くなったところで16:30の集合時刻。あらかじめホテルへ送っておいた花束を受け取って結婚式へ向かう。
ジェントル・ヒデキ(後ろは石の教会)
結婚式も披露宴も幸せ満点だった。唯一意見を述べさせて頂くとすれば、結婚式の「誓いの口づけ」に余りにも初々しさが無かったことだ(笑)…そりゃそうだよね

ともかく幸せ満点の宴は終わった。もはやTBと堀内のターゲットは石巻行きへ移った。
21時にバスが湯川ガーデンテラスを出発。5分後にホテル、超速で着替えて21:21、21分のビハインドでホテル駐車場を出発。

21:40 FM南軽井沢店で朝食と飲料と氷を購入、21:45発。氷は披露宴で貰った軽井沢高原缶ビールを冷やす為のものだ。
まずは関越道まで上信越道を60kmほど戻り、少し新潟方面へ進んでから北関東道。
この北関東道がもし全通して居なかったら、或いは外環道まで戻ることを余儀なくされたのなら、今回のプランは不可能だった。或る意味、北関東道が今回の功労賞で有ろう。

何処まで行けるかわからないラビングラビット号は高崎ジャンクションから右に、北関東道栃木方面へ舵を切ったのであった(続きはここへ!)

写真はここに(Picasa Web)!

写真はここにも(DropBox)!


2015年9月6日日曜日

【全員完走!】【2年連続出場】2015TdT(ツール・ド・東北)

【100km北上フォンド】 東雲、中山、二瓶
【60km女川・雄勝フォンド】 堀内、tanakabucho
しんどい道のりを全員完走しました!!

----
昨年はボタケツ二瓶と、tanakabucho緊張の内に60kmを完走したTdT。
今年は一挙5名に増員してなお且つ100kmに3人エントリーの上で完全制覇を目指す。
リアス式海岸の峠越えは我らを無事にゴールまでいざなってくれるのか?
緊迫の続報を待て!!

2015参加指令書

ツール・ド・東北 2015 公式サイト

あの感動をもう一度!】 2014.9.14 ツール・ド・東北60km 

tanakabucho昨年のゴールシーン

2015年8月27日木曜日

Twins結成される!

2015.8.25 運用部歓送迎会にて一夜限りのユニット「Twins」が結成されました。聞くところによれば「20年後にメジャーデビューを果たす!」と息巻いているとか

竹山さよらLive! でのTwins。次の会場はすすきののキャバレーか

2015年8月8日土曜日

新花巻と盛岡

出張の空き時間を見計らって撮り鉄。帰りはグランクラスでほんの少しの贅沢を
写真はここから

2015年8月2日日曜日

23WSJと山口県先っぽ一周の旅

我らがボーイスカウト調布2団からカズホとリョウタ2名の参加を得た23WSJ(第23回世界スカウトジャンボリー)きらら浜大会。
会場へデイビジター入場で声援に駆けつけたのが8/1(土)。
ふたりの元気な顔を見た翌日8/2(日)は皇太子殿下のご来場で見学者入場不可。そう言うわけでせっかくなので滅多に行けない山口県の先っぽを巡って来た次第。いつでも行けそうな萩と秋吉台は、今回はパス!

写真はここから!

主なルート
防府発→美祢駅→美祢線長門湯本駅で美祢線列車を迎撃撮→山陰本線盲腸線仙崎駅ドンツキ→千畳敷の途中、人丸駅で山陰本線列車迎撃撮→千畳敷→東後畑棚田→元乃隅稲成神社(津黄竜宮の潮吹)→角島大橋→特牛駅→道の駅北浦街道豊北→下関火の山展望台→関門トンネル人道→宇部空港。
7時間強、250kmの旅程だった

【以下、ダイジェスト】
角島大橋。沖縄の橋の方が綺麗ですな。なんでこんなに人気が有るんだろう?

しかし何故にJR西日本は列車を1色に塗ってしまうのか?

2015年5月20日水曜日

MOI9 奄美大島大会

色んなことが起こり過ぎた3泊4日。
奄美大島は、そのすべてが「非日常」だった!

----
MOI9回想録
----

まだ5月初旬なのに素早く誕生した台風6号は我々の奄美行きを妨害するがごとく、フィリピン沖から沖縄先島、本島そして奄美大島を射程圏に入れていた。
やがて足早に北上しそうな気配に変わった。しかし安心するのも束の間、更に南方海上に台風7号が発生した。
我々先発メンバーが奄美に到着する2日前、6号はまさに我々が泊まらんとするキャンプ場の上空をこれみよがしに通過して行った。
13日は台風一過。急きょ参加したジンちゃん旦那とジンちゃん(以上、ジンちゃんズ)と3人で着いた14日の奄美は薄曇り。
「台風はたった2時間で過ぎて行きよった」と西郷レンタカーGAL。威力がかなり物足りなかったらしい。

思えば一昨年の6月。
三宅島を目指していた我々に、どかんと座り込んだ台風3号。
東海汽船をキャンセルし、JOI(June Of Islands)7はJONIと呼び名を変え、我々は新潟へ避難した。
2年後の長老還暦祝いを奄美大島で。
奄美でやるならJOIでなくてMOI(May、5月ですね)にすべき、と言うジンちゃんのひと声で決行日は2015年5月15日(金)~17日(日)に定められ、「構想2年、滞在4日」のMOI9奄美大会は2015.4.7@ひばりヶ丘「コードネーム:alouette」会議を頂点に極秘裏にも綿密に計画された。
タナカ隊長はテント2個と隊備品、個人備品を詰め込んでヘビー級のスーツケースを仕立て上げた。破裂に備えてベルトを2つ巻き、鍵部分にはガムテープを巻いた。
そしていよいよ、台風6号と7号の挑発を受けつつも、出発日はやって来た。
5/14(木)
羽田空港チェックインカウンターでスーツケースを置くと41.6kgだった。
通常20kg、特権で+20kgまで無料なので1kg超過分400円を支払ってくそ重たい荷物を積んでもらった。
到着後にレンタカーを運転するのでラウンジでビールを控えめに(4杯)飲む。
空港でジンちゃんの旦那が同級生の親に会った。
島はもうすでにここから始まった。
ちなみにジンちゃん旦那は今日になって急きょ参戦が表明されたのであった。

西郷レンタカーもジンちゃんズのお友達だった。レンタカーは島キャンプにジャストフィットの4ナンバーのライトバン。クソ重たいスーツケースも楽々INだ。

まずはキャンプ場を目指す。どんな道具や器具を使えるか、まず見てから買い出しへ行こうと言う算段である。
空港から30分ほど。目指す渡連キャンプ場に着くと、今にも軽トラで出掛けそうな島おじさん(あるじ(66))がいた。
「キャンプに来ました!」「予約した人か!クルマはそこに止められる!」
こんなに広い島なのにキャンプ場に駐車場は無く、「路駐かよ」であった。

キャンプ場へ入ると驚いた。テン場は芝生。至る所に水道と電気が有り、特に素晴らし過ぎるのは母屋入り口すぐ脇にある冷蔵庫と、目の前のプライベートビーチ!
さすがにウミガメが産卵に上がる浜である。もちろんこの時は、まさか実際にウミガメの産卵を見られようとは、つゆほども思わなかったのだが。

買い出しである。ビッグ2である。店前に深紅の巨大のぼり旗がはためく。
ここは凄い。フロアが広い。左端の酒~食料品から日用雑貨文房具服靴キャンプ道具釣り道具ゴルフ道具日曜大工100円ショップその他もろもろ、ワンフロアで何でも揃う。
ビッグワンで無くビッグ2なのがまたおくゆかしい。
早速メニューを考えながら買い物を始める。買っている最中に鶏肉チューリップの旨そうなのを見つけてしまい、ルーもスーツケースで運んで来ていることなので今晩は「クリームシチュー」に決定する。ジャガイモでなくキャベツで作ることにした。
カツオとシビの骨を買う。煮付けると旨そうだ。両方とも50円が20%引きで40円だった!
生姜も忘れずに。にんにくは長老が沖縄から持って来ることになっている。
花田のミキも買う。1Lにするか迷ったが500mlで正解であった。

ミキは寝かせておくと酔拳の酒に変わる妙な飲み物。主成分はコメだがさつまいもと白糖の味付けで太りそうな甘さ
肝心の黒糖焼酎を買うのを忘れたが今晩長老が沖縄から泡盛を運んで来るのでそれをアテにした。
旦那はオカヤドカリを餌に1匹釣って来た。早速焼いて頂く。
飯を喰い終え20時に長老を迎えに出た。
那覇7:00発のフェリー「波之上」は20:30に奄美大島名瀬港に着く。何と13時間半の長旅だ。
20:20頃着いたらしい長老から電話が入るが電波状態が悪く話せない。
ようやく「もうちょっと待ってて」と伝えたのが20:40頃。その後15分くらいで、埠頭の道端に沈み込む長老と邂逅した。
待たせて済まなんだ、長老!

長老は元々チャリを持って来て、港からキャンプ場までチャリ移動の計画だった。
クルマで40分も掛かる峠越え。持って来なくて正解だったでしょう、きっと。

取って返してキャンプ場。長老は飯を喰い、泡盛を頂く。晴れて満天の星空。テントを張る。
ウミガメを観るなら3時起床と言われつつ12時消灯。ジンちゃんズは今晩は実家泊り。ひと時の別れ。
目が覚めたのは4:30だった。

5/15(金)
快晴
起きると暑いので冷蔵庫からまずビールを出す。飲んでいるとあるじから「久々にウミガメが出た。大いびきで寝てて起きて来ないから置いて行った!」と残念な報。
浜へ見に行くと50m位のところに産卵場所が有った。
アカウミガメの母は手前の足跡を上り産卵。産卵を終えると平らにならしてカムフラージュする。そして奥の足跡を通って海へ戻った。上ってから帰るまでおよそ2時間だ
16日は新月で最大の干潮。実はこのシチュエーションはウミガメの産卵に絶好なのではないのかと、何となく狙っていたのが現実になった気がした。
そしてそれは、明日未明には絶対に見られると言う確信に変わった。
きっちりと冷蔵庫で冷えたビールを数本飲み、9時頃にはやって来るだろうジンちゃんズを待つがそこは島時間、なかなかやって来ないので腹も減り、今日2回目の朝飯になるあるじを交えて3人でポーク卵とシチューの朝飯を喰った。

やがて10時を回り、ハブ箱を持ったジンちゃんズが到着。
今日は大野ちゃんが14:45に空港着。14時に迎えに出ることにしてそれまで潜り(ジンちゃんズ)と釣り(長老と隊長)に別れた。ジンちゃんズは姫さざえやシラヒゲウニなどを捕獲。長老組はその名の通りボウズ。13時に素うどんの昼飯(天ぷら(かき揚げ)を作ろうとしてコロッと忘れた)。

シラヒゲウニは人数分だけこじんまりと獲って来てくれた
8匹入ったハブ箱をクルマに積んで14時出発。空港では大野ちゃん定刻到着&ピックアップ。
その足で向かうのは笠利地区の役場で、目的は「ハブ売り」である。
奄美大島ではサイズを問わず1匹3千円で役場がハブを引き取る。
駆除にカネを掛けられない行政と、収入源に乏しい住民の「持ちつ持たれつ」だが、毒蛇と共棲しちゃうんだから奄美のヒトは凄い。
持って行くと係のおじさんが1匹ずつハブをハブ入れに入れる。小さいのは左、大きいのは右だ
役場(笠利支所)から程なく、奄美大島における国道58号線の北側の起点が有る。
「かりゆし58」など58号と言えば沖縄のイメージだが実は、
  • 起点:鹿児島県鹿児島市
  • 終点:沖縄県那覇市
  • 主な経由地:種子島、奄美大島 で、
路線延長877.9 km
海上区間609.5 km
何と海上区間の方が圧倒的に長いと言う、国道マニア垂涎の「分断国道」なのである。
そう言う訳でこれが貴重な、奄美の国道58号北側起点
そんな国道58号線を通ってビッグ2へ2度目の買い出し。途中でエブリワンをチェックする。1日90万くらい売る店だ。店内製造のサーターアンダギーとデーリィ フルーツサワーを買う。
一旦帰宅(キャンプ場へ、ね)後、必要な物を冷蔵庫へしまってから釣りに出る。
最初に行った堤防は風も強く早々に退却。名瀬寄りの堤防へ移動したがここでもアタリ無し。やがて19時を回ってサンセット&ゲームセット、場所を移して夕陽を撮影。

♪耳をすましたらぁ~「ジュッッ」と言う音がしたんだよぉー♪沈む瞬間にぃ~(清志郎調)
テン場へ帰宅すると可愛い来客が居た。兵庫から一人旅、何でもマイルが失効するのでノープランで奄美へやって来たという脳天気な娘。
鼻の下伸ばしたあるじは1晩泊めるくせに仮眠と称してわずかしかカネを取らない上に、キャンプ場の中で一番広くて綺麗なロッジを娘にあてがった。若い娘ほど強いもんはない。
3時集合で一緒にカメを見に行くことにした。
晩飯は貝と豚足のバーベキュー、魚の塩焼きと煮付け。ジンちゃん家がくれた材料が大活躍。
しこたま飲んで砂浜にブルーシート敷いて満天の星と流れ星を見て、そしてまた12時過ぎてから寝て3時前に起きるというサバイバル路線に突入。北斗七星が巨大。北極星も明るく観える。浜は真北に向いていた。

かくして隊長は2:40きっちり起床。2:55にあるじと娘が起きて来た。我らが他のメンバーものそりと起き出す。
皆赤い懐中電灯を装備して3時。あるじのレクチャーを聞きながら満天の星の下の砂浜を、ライトを消して歩く。月は新月に近くどこにも無いが星明かり明るく、眼が慣れるとライトは要らない。
ライトを消していた方がカメが上がった道を見つけ易い、と教わったのはその通りだった。暗いと流木やら、たまにはカメそのものにケつまづくのには十分注意しなければならないが。

程なくして数十メートルのところにカメの道を発見。あるじが先に見に行くともう既に産卵に入っているので安全に近寄れると皆を呼んだ。
かくして初のアカウミガメ(マコと命名)の産卵とその後のカムフラージュ、そして海まで帰る姿を目に焼き付けた。
神秘的、と言う以外に言葉が見つからない神秘さであった。
兵庫県の娘は一泊必中でウミガメ産卵を見た。相当なあげまんだったのかも知れん。
ピンポン玉大の卵をボトボトボトと連続で産み出す。あるじはタグを確認している
砂浜へ産卵に上がって来るのはメスだけで、オスはずっと海の中に居る。アオウミガメはその辺に棲んでいて龍郷港辺りで釣り針に引っ掛かることも有るが、アカウミガメは遙か南米の海まで繰り出す。
卵を産みに来る母浜(ぼひん)がそれぞれの母ガメに有るらしいが、今回あるじの浜へ産みに来た「マコ」がこの浜の生まれかどうかは、孵化した子ガメにタグを打てるわけでは無いので「わからない」。
以上が観察しながらあるじに教わった事。
翌日の晩、パンチ漁師(レイミさんの夫で元シェフ(天皇陛下に油ゾーメンを出したことがあるらしい)。詳細後述)が奄美弁で語ったところによれば、「カメは守られているから増える一方だ。海中では魚が棲むはずのところを、カメが占拠している。漁師からすれば迷惑はなはだしい。適量のカメを獲るべきだ」..ハブと共棲、カメと共棲。
奄美のヒトは課題が沢山なのである。

5/16(土)
快晴
起きると暑いので冷蔵庫からまずビールを出す。昨日の残り物と目玉焼きの朝飯。毎朝きりっと冷えたビールで朝飯を迎えると言うのは実に誠に素晴らしい。
今晩は長老60周年記念パーティーにジンちゃんズの友達たちが集まる。
昼飯は奄美名物鶏飯(けいはん)を喰いに外のレストランへ出る。
本日11:30頃に最大の干潮を迎える。普段行けないリーフの先の先まで歩いて行ける。
そう言うわけで今日の予定は
「午前中釣り」、「昼は外食」、「夕刻戻ってパーティーの準備」、と相成った。
昨日買って来たオキアミを持って釣り場まで歩く。

13時、鶏飯を喰いに出発。カンカン照りの中、魚のアタリも無く早々に釣りを諦めて引っ込んだ生物学上の女子ふたりは既にビールを飲み進めており、必然的に運転手は隊長になった。
レストランが有る「ばしゃ山村」はジンちゃんズふたりがかつて働いていたところで、ふたりが出逢った想い出の場所だ。上品で旨い鶏飯と油ゾーメンを喰った後(隊長以外はもちろんビールも飲んだ)、アイスと氷を補給してテン場へ帰宅。
風が強まり天候悪化の気配で、洗濯物を取り込んだりして雨仕舞を始める。

やがて夕立。
数十分で止むかと思ったら1時間以上降り続く本格的な雨になった。気温が下がって一気に過ごし易くなる。
飯を炊こうと電気釜のスイッチを入れたら水が出なくなった。調べると停電してポンプが止まっていた。様々対応するが幾度もブレーカーは落ち、出掛けていたあるじを呼び戻してしまった(ツタヤへDVDを返しに行くところだったらしい)。
どうやら原因は電気釜の故障で、こいつさえ繋がなければブレーカーは落ちなくなった。コメはあるじの厨房のガスで炊く。
やがて夕方5時。
一番乗りは諏訪さん家族4名。パーティー用料理のお手伝いを頂くと流石に手際が良い。
この後、夜8時頃に次の家族、そして3家族目は夜の12時到着!と言うんだから「島時間」の悠長さには驚きだ。
スワ・ハナちゃん(チビ)はホントにまったく言う事を聞かない。それはさておき、可愛い子供たちだった
雨は上がり、ジンちゃん旦那と隊長は長老に内緒で60キャンドル作りに入った。反省点はやはり「火薬を使うべきであった」、であろう(苦笑)
例によってメイキング オヴ。旦那のテグスの扱いは天下一品だ!
そうこうしている内にビッグ2ご家族とレイミさんが合流して大勢になって来た。点火の機は熟した!

(みな声を揃えて)
♪ハッピバスデーチョーロー
 ♪ハッピバスデーチョーロ
  ♪ハッピバスデーハッピバスデー、ハッピバスデーチョーロー
(もっと速く)
♪ハッピバスデチョロー
 ♪ハッピバスデチョロ
  ♪ハッピバスデハッピバスデ、ハッピバスデチョロー!!
   (ぱんぱんぱぱんぱぱんぱn←クラッカーの音(拍手~!!)
点火!
消火!
ローソクを消したら火吹きに! こりゃオモロイ!ちびっこらも写真を撮る
夜10時になり諏訪さん一家4人は帰ったものの残りのメンバーの酒はますます進み、そのまま眠る者、くだを巻く者、前後不覚に陥る者等々が現れ始めた。
レイミさんのご主人のパンチ漁師(何でも昭和時代を彷彿とさせるパンチパーマで、オヤジさんはアイパーらしい)待ちだがどうやら目標到着時刻は0:30頃とのことだ。

  • やがて0:30少し前にパンチ漁師は素晴らしい獲物を持って登場し、素晴らしい手さばきで我々に素晴らしいネタをご馳走してくれるのだがあえて詳しくは書かない。
    みな想像してくれ給え!

時刻は2時を回った。2時半には蛍光灯を消しておかないとあるじに怒られる。灯りが点いているとウミガメを迷わせてしまうのだ。2家族が順次帰宅。片付けをして赤い蛍光灯に点け替える。
パンチ漁師とレイミさんはあの後「ハブいざり」に行ったんだろうか。

実は今回の白眉はここから。
2:45、浜のパトロールに出たのはジンちゃん旦那と隊長と、既に酒に飲まれたジンちゃんの3人。
足跡を探そうと波と平行に歩き、波打ち際へ赤い懐中電灯を向けたその時!
ちょうど海から浜に上がって来たばかりのウミガメの顔を真正面から照らしてしまった。慌ててライトを逸らして皆で10mほど下がってしゃがみ込んで様子を見る。
ジンちゃんの意識は既に混濁している。我ら男たちも睡魔との闘いである。

暗い中、眼をよーく凝らして見ていると黒い塊が左から右へ移動している。ウミガメである。ライトを当ててしまったのでもしかしたら驚かせて海へ戻っちゃたかも、と言う心配は杞憂に終わった。(命名)カコはこの場を産卵場所に決めたようであった。

浜の上り下りをする時のウミガメの歩みは速い。カメが遅いと言うのは子供の頃からの刷り込みで、実は結構速い。そりゃウサギには負けるが、カメだってそんなに馬鹿にしたものでは無いのだ。
5分ほど待ってそろそろ産卵位置が決まったか確認しに行くと案の定、カラダを回して円を描いて地ならししているところだった。場所づくりが終わるまでもう一度離れる。
さらに5分後。ようやく産卵場所を決めたらしく産卵用の穴を掘り始めていた。よく見ると一度草付きまで上がって、上がり過ぎたので戻って来ている。
もうちょっと詳しく説明をすると、ウミガメの卵は海水に触ると孵化しない。
よって母ガメは波の来ない所、即ち砂浜の上部を目指す。
砂浜の上部には草が生えている(草付き)。ここまで上がっちゃうと砂が硬くて掘れないので、大抵は草付き手前に産卵することになるのである。

卵を産み始めたカコを置いて、我々も眠ることにする。
初日はマコ、2日目はカコ。真正面から赤い懐中電灯の灯りを当ててしまったカメがカコ。ポジションが定まり、もうすぐ卵を産み始める
5/17(日)
快晴
起きると暑いので冷蔵庫からまずビールを出す。さすがにさっきまで飲み喰いしていて腹が減っていない。ゆっくりめの朝飯にする。しかし、毎朝きりっと冷えたビールで朝飯を迎えると言うのは実に誠に素晴らしい。

個人装備を外に出してテントを干す。寝袋も干す。
スーツケースを拡げて持ち帰るものを集め始める。
シャワーを浴び朝飯を喰って撤収。雨が降ったのは昨夕の1時間ほどだけ。これはこれで涼しくなって助かったし、今朝は好天でテントが乾く。
もし最終日が雨で濡れたままのテントをスーツケースに詰めることになるなら、2張りのテントは奄美大島に置き去りという羽目になっただろう。
ふつか酔いのジンちゃんは一度起きて甲斐甲斐しく働いたが風前の灯火(ともしび)だったらしくその通りエネルギーが切れ、やがて熟睡に入った。寝返りを打ったら地面に落ちる長椅子の上で微動だにしないと言う、見ていて気持ちの良い熟睡さであった。

飛行機で那覇へ帰る長老のフライトが14:10。羽田行きは15:35。
あるじと記念撮影してキャンプ場を12時に出る。45Lペール2つ分の大量のゴミを残して済まなんだ。
チーズとかバターではなく、アマ・ミー!で撮るのが正しい奄美大島での記念写真の撮り方
空港へ行く前に「あやの丸見物」をリクエストした。
名著「土佐の一本釣り」によれば船乗りはフネのエンジンに女性の名前を付けて大切に扱う。調子が悪ければ「今朝のアグネスはちょっと機嫌が悪い」、と言う具合に使う。
外国では、例えばクイーンエリザベスのように船名に女性名を使うことが有るが、日本の軍艦や客船には無いようだ。但し「〜丸」を標準とする漁船は別である。
そんなあやの丸。当のあやの嬢は相当貫禄がついた感じであるがフネはやがてまた出番を待つように、屋仁港にしっとりと健在だった。
これを見ずには帰れない、これが夢にまで視たあやの丸
これ以上の非日常があるならかかって来い!
と言うくらい恐るべし非日常を重ねたMOI9奄美大島記念大会は盛況の内に幕を閉じた。

そして次回のJOI(or MOI)10回記念大会に続く。
ああ
東源協の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の隊員等が 全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ

東源協の前に道はない
東源協の後ろに道は出来る
ああ、長老よ
我らを一人立ちさせた長老よ
我らから目を離さないで守る事をせよ
常に長老の気魄を我らに充たせよ
この遠い道程のため
(了)
【P.S】
奄美行きの1週間後に出張で鹿児島へ行った。鹿児島市内の58号線を走って来た。
何と国道58号線は、鹿児島市内には数百メートルしか無かったのだ!
鹿児島市内の58号線はここで終わり。次は種子島!
Special Thanks
----------
Jin chans
Everyone of friends of Jin-chan's
Araki's ”ARUJI”
Big2
Basha-Yamamura
Other Amami Oshima of everyone!!
(再び、了)


2015年4月5日日曜日

1998年シリア旅の貴重な写真

1998年シリア旅の貴重な写真が出て来た!
インディ・ジョーンズ風tanakabucho、帽子と靴以外の服はいまだ健在(いまだ着てます)です!

https://picasaweb.google.com/113678205872139090509/Syria1998?authuser=0&feat=directlink

2015年3月1日日曜日

肥薩おれんじ鉄道と九州新幹線

2015年2月27日(金)の熊本。
【行程】
熊本空港→(バス)→八代グランドホテルで「肥薩おれんじ鉄道ご担当者」からのセミナー
→(バス)→八代駅
→肥薩おれんじ鉄道体験乗車→新水俣駅
→九州新幹線に乗り換え→熊本駅
→(バス)→熊本県庁で観光取り組みレクチャー
→バスで宿舎(熊本泊)
まずは肥薩おれんじ鉄道「八代駅」と隣接する本社からスタート
肥薩おれんじ鉄道は九州新幹線とバーターに3セク化された元鹿児島本線で、その昔はブルートレインはやぶさなどが走った線路を1両、多くても2両編成の気動車(ディーゼルカー)がトコトコと走っている。
3セクの株主は【熊本県側】熊本県、八代市、水俣市、芦北町、津奈木町、【鹿児島県側】鹿児島県、阿久根市、出水市、薩摩川内市、【民間側】JR貨物社だ。JR貨物は貨物列車を走らすのにここの線路が必要。貨物列車は電気機関車が引いている。

おれんじ鉄道に乗る前にJR八代駅。14:31発九州横断特急6号1076Dを見たかったが、おれんじ鉄道の発車が14:16だった。残念
おれんじ鉄道八代駅からJR八代駅を見る。JRとおれんじ鉄道は、経営は途切れているがホームと線路はつながっている
JR九州の車両は格好良い。左は各停鳥栖行き817系電車
肥薩おれんじ鉄道14:16発JR隈之城駅行き1両ワンマン進行方向後ろ側
前側の顔は緑色
鹿児島ゆるキャラの「ぐりぶー」ラッピングカー。ぐりぶーの知名度は熊本のくまモンには相当劣る..
http://www.yurugp.jp/vote/detail.php?id=00001008

後ろ乗り前降りのワンマン
確か肥後二見駅ですれ違ったおれんじ食堂列車
田浦付近は海岸線ギリギリを走る。右の島影は天草の上島
保線係の人が佐敷駅まで乗っていた。保線作業中の作業員も列車が通過するとみんな笑顔で手を振ってくれる。おれんじ鉄道はホスピタリティあふれるローカル線だ。はやぶさも通ったトンネルは感慨深い
ところで南九州ファミリーマート社がタイアップでラッピングカー「ファミマ号」を走らせている。
http://www.hs-orange.com/cgi_bin/webpat/document/ad/2010/081905/index.html
おれんじ鉄道担当者に聞いたらまだ走っているそうだ。

乗車時間57分。八代から11個目の駅「新水俣」で下車

新幹線駅と恐るべきギャップの肥薩おれんじ鉄道新水俣駅
アナログの肥薩おれんじ鉄道VS.デジタルの九州新幹線。新水俣駅
昼間は1時間に1本と実は新幹線もローカル線時刻表並みの九州新幹線新水俣駅。乗ったのはさくら、新水俣から新八代へはあっという間、12〜13分で着いてしまう。おれんじ鉄道の「のどかさ」が懐かしくなる新幹線のドライさだ
熊本駅で邂逅した800系つばめ。N700でなくこっちをたくさん走らせてもらいたいものだ
さて八代グランドホテルで観光課長がレクチャーしてくれた「肥薩おれんじ鉄道」についてここで振り返っておこう。
  • 91年九州新幹線の開業が決まった時に、当時からお荷物赤字路線だった八代〜川内間の3セク化が決定。廃線、バス代替も議論されたがレールが途切れると困るのは地域住民以外にJR貨物も居て、同社も3セクに参加して鉄道継続を決定
  • 社名を公募で決定、おれんじは沿線名産の柑橘類から付けた
  • 04年3月13日運行開始。駅数28、営業区間116.9kmは日本の3セクでは最長
  • とは言え利用者は減る一方
  • 利用者の77%(通学が70%)を占める定期券利用者からの運賃収入は3割強しか無く、収入増を頼りたい定期外利用者を増やすことが存続に向けた使命。そこで09年10月に営業部を発足させて誘客取り組みを開始
  • ラッピング列車やビール列車などの企画列車を走らせても依然として利用人数は減少
  • 打開策として ①環境省「観光首都『水俣』創造事業」に乗り、②全国から姿を消しつつある食堂列車の復活話題作り、③鉄道で著名な工業デザイナーを起用 して、13年3月24日から観光列車「おれんじ食堂」の運行を開始
【公式】おれんじ食堂 走行動画
http://youtu.be/waS7EH02xS4 

 さて成果は出ているのでしょうか?
  • おれんじ食堂列車
  • 13年度乗車客数合計      14千人
  • 14年度3Q(12月)までの合計 9.5千人
課題は恐らく「熊本・鹿児島まで行ってでもまた乗りたくなる列車」でしょう。
関係者の努力はまだまだ続く。
ところで青春18きっぷではおれんじ鉄道を利用出来ないので注意!
そういうわけで堪能させてもらった肥薩おれんじ鉄道。JR九州との「あと10年の協力期間」が勝負だそう。いつまでも走らせ続けて欲しいものです
(了)

2015年2月19日木曜日

2015年2月15日日曜日

3年と11ヶ月経過した福島県

片づきはしたがもう間もなく4年に..

JR常磐線原ノ町駅~阿字ヶ浦駅間の写真(鉄道写真だけではありません)
https://picasaweb.google.com/113678205872139090509/20150214?authuser=0&feat=directlink

帰還困難地域の国道6号線を南相馬側から南下した動画
フクイチ入口通過は7分55秒後
https://cloud.real.com/s/7ix23V

いずれも2015年2月14日(土)の撮影

2015年1月23日金曜日

今はイスラム国「あの『シリア旅』」一挙掲載!

1998年tanakabucho一家のシリア旅行。
何だかんだ言ってもあの頃は行けた。
今はイスラム国、行く=死にに行くことだ。

ウンヨウBlogに2011年1月から2012年にかけて連載した「あの『シリア旅』」を、若干の加筆修正(てにをはを整えるのみ)で一挙掲載!
後半になってシリア内戦に触れているが、書き始めた頃はまだ戦禍は無かったらしい。当時ヒトが殺される国はイラクだった。
かように、シリアはあっという間に壊れたのだった

写真はここに

----
陸路国境越え~連合赤軍と同じルートでシリアへ入る~プロローグ
【プロローグ】

古い話だがもう2度と行かないだろうし、かの地はたぶん何も変わっていないだろうから、今更だけど僻地好きtanakabuchoの冒険記録を書いておこう。
時は1998年、tanakabucho一家がタイ・バンコックに駐在していた頃...


tanakabuchoには2つ下の妹が居て、作業療法士として日本の病院で働いていた。
その妹が何をトチ狂ったかJICAに応募し、何と赴任先がシリアのダマスカスに決まった。
普通の家庭だったtanaka家は、息子はバンコックで、娘はシリアで働くという国際一家になり、妹はどこにあるかもわからないような、シリアという国の首都:ダマスカスに赴任した。

しばらくして日本にいるお袋から、「シリアにいる娘に会いに行きたい」と国際電話が入った。
確かに日本から行くよりも、バンコックからの方が行き易いに違いない...そうなれば行かないわけにはいかん! と言うことで、tanakabuchoはバンコックでシリア行きの調査を始めた。

バンコックは国際都市。中でもスクンビット通りはソイ(小路)の数字の若い方からアラブ人街、韓国人街...と住み分けていて、ソイ31から49位が日本人街。私はソイ39に住んでいた。

ソイ1はアラブ人街。一歩踏み入れるとヒゲにターバン、水たばこの男どもがズラリ。
そのそばの旅行代理店に入り、シリアへ行きたいのだが、と告げた。シリア?スペルは何?と聞かれるほど当然ながら誰もあまり知らない。
でもそこの係のグラマラスなアラブ系女性(名前失念。仮にNoi)は優しく、元BOSSがGulfAirに居るから聞いてあげる、と言ってくれ、シリア行き情報収集(インテリジェンス、ね)はこの店をベースに行われることになった。

店を出ると早速アラブメシ屋に入り、食い物の調査を行う。主食は豆であった。
ついでに水たばこの吸い方やアラブ式コーヒーの作法なども徐々に把握する。一時期は会社で仕事が終わると毎日ソイ1に向かっていた。

数日通ったある日、バンコックからシリアへ入るには、アンマン経由とドバイ経由の二つ有る、とNoiが言った。アンマン経由の場合はロイヤルヨルダン航空、後者はGulfAirだと言う。
この頃には書籍や知人ルートなどで少しずつ知識も備わって来ており、シリアへ行く時はヨルダンにも寄りたい、と言う思いが強かったから、迷わずアンマン経由のフライトプランに絞った。
その結果、バンコック→アンマン→ダマスカスの空路往復なら6日間で行けることもわかった。

数日後、Noiが言った。ヨルダンのVISAはバンコックで取れるが、シリアのVISAは取れない。取れる最寄りの国はインドネシアだ、と。
社会主義のイスラム国家。愕然としたが、よく聞くと国交が有る日本なら取れると言う。

何日か後に、日本へ出張で帰る知人の日本人女性がいた。彼女(タイあだ名はngaam)


にパスポートを預けるしかない。ngaamは快諾してくれ、tanakabucho一家4つのパスポートを持って日本へ旅立った。
成田にはお袋が自らのパスポートを持参して迎え、ngaamはtanaka家5つのパスポートを持って僻地専門の旅行会社「西遊旅行社」へ行き、見事に数日後、シリアのVISA付きパスポートを携えてバンコックへ戻って来た。
ともかく最大の懸念事項を突破した瞬間であった。

その後は会社の休みを取るための準備と、旅程作成に取り掛かった。
お袋は折角だから1日でも長く居たいと言うし、tanakabuchoはtanakabuchoで、インディージョーンズ最後の聖戦でハリソン・フォードと親父役ショーン・コネリーが馬で乗り付けるヨルダンの「ペトラ遺跡」へ何としても行きたかったので、フライトスケジュールと首っ引きの結果、会社を9日間休ませてもらわなければならなくなり、仕事もアタフタし始めた。

一方、自称インディージョーンズとしては装備も整えねばならず、キャメルのネルシャツ、ハッシュパピーのデザートブーツ、そしてもちろんインディー風帽子などを買い揃え、準備に余念がなかった。迷ったが、ムチは買わなかった。

当時パソコン通信は出来たが、妹の居るシリアという国は後に悪の枢軸国と言われるように社会主義・鎖国状態で情報統制は厳しく、妹とは滅多に連絡が取れなかった。
たまにつながっても電話線がゥワーンとしていて、さながら盗聴されているみたいだった。
日本にいるお袋も同様で、たまに妹とつながるわずかな時間に、ダマスカスへの到着日を伝え、合流するダマスカス市内のホテルの名前を聞くことが精一杯だったようだ。そんな状況下で徐々に出発の日が近づいてくる。

確か出発の5~6日前。実はまだ復路のアンマン~バンコック便がキャンセル待ちで取れていなかった。Noiの顔色も曇りがちだ。とは言えお袋には成田~バンコックのビジネスクラスのチケットを送ってあり、もうすぐ来てしまう。

もう仕方ない、と予定より2日後のフライトに変更した。これによって土壇場に、あとプラス2日の休暇を取らねばならなくなり、社長にお願いしに行って11日間の休みをもらった。
タイ人スタッフは応援してくれた。お袋はもちろん延長歓迎であった。

ともかくも準備は揃った。と言っても手もとに有るのはバンコック~アンマンの往復チケットのみで、肝心のアンマン~ダマスカスのフライトチケットは無い。
フライトを乗り継ごうとするとアンマン空港で10時間以上待たなければならなかった。
そこで、「アンマン~ダマスカス」は陸路で行こう、と腹を決めた。地図を見る限りでは行けそうだった。とは言え皆に言うと心配するからアンマン到着まで内緒にすることにした。
陸路で国境を越えられるのかどうか、実際、何の情報も無かった。

そういうわけでバンコック~アンマンの往復チケット以外はブッキング無し、しかも連れは女子供(娘ふたりは小1と年中)だけと言う、恐るべし家族連れ中東旅行がスタートするのである。

【プロローグ終わり】


陸路国境越え~湾岸編
【湾岸編】

出発日前日にお袋が成田から単身到着。娘に逢いたい一心の親心は初めての単身海外旅行も可能にする。我が家で1泊。
翌日はいよいよ出発日。タクシーでバンコック国際空港へ行き、ロイヤルヨルダン航空の飛行機に乗り込んだ。バンコックから西へ飛ぶ、初めてのフライトである。

前方に数席だけ用意された禁煙席に座り機内後方を見るとヒゲ・ターバンのアラブ人がほぼ全員タバコを吸っていて既に煙は機内に充満し、目を凝らすと奥に行くに従ってどんどんどんどんアラブ度が濃くなっていくようであった。

やがて機が飛び立ち、しばらくすると前方のスクリーンに方位磁針の針のような矢印が現れた。常に微かに回転している。
やがて謎が解けた。客席から何人もがドタドタと立ち上がり、通路に個人所有の玄関マットみたいなものを敷いて、全員矢印の方に向いてお祈りを始めたのである。そう、この矢印はメッカの方角を示していたのであった。
イスラム教のお祈りは日に5回、日々時刻が決まっていてキッチリと行われるから、アンマンに着くまでの間に数回、同じ光景を目にする羽目になった。

やがて機は降下を始め、おやおやまだアンマンに着くには早いぞ?と思っていたらUAE(アラブ首長国連邦)のシャルジャ空港に着陸した。スチュワードに聞くと給油のためと言うことだった。
サンタクロースの絵が描かれた(確か)フィンランドの飛行機が隣に停まっていた。

再び機は離陸したがここからは「湾岸」である。クウェートを目指して飛び、途中からサウジ・イラク上空へ、左へ旋回する。スクリーンに現在地が地図とともに映し出されるとまさにクウェート手前。少しだけ緊張した。


アラブ探検隊 ~シリア・ダマスカス到着~

ロイヤルヨルダン航空バンコック発アンマン行きはクウェート、サウジ上空を順調に飛んで、ヨルダンの首都アンマンに有るクイーンアリア国際空港に着陸した。荷物が出て来るのを待ちながらカートを探しに行くと、暗い眼をした青年が有料だと金額を言った。

詳しい単価やレートは忘れてしまったが、ヨルダンの通貨であるヨルダン・ディナール(JD)で払うと100円程度、US$だと2ドルとか、ともかく「ドルで払うと2倍」程になる。これはここのみならず、アラブ探検旅行中、これからどこでも遭遇することになる。

カートを借りて荷物を積み、外に出てタクシーのドライバーにとりあえず「アブダリ・バスターミナル」と告げる。
どこへ行くのか? と聞かれたのでダマスカス、と言うと「ダマスカスへ行くドライバーが居るツーリストが有る」と言うので、バスターミナルでなく、そこへ運んでもらうことにした。

ドアに「Damascus」と書いてある町外れの民家のような建物の前に停まり、タクシーの運転手が話をしに行って戻ってきた。ドライバーが来るからここで待て、と言ってタクシーは去った。
10分ほど待っていると明らかに今起きたばかりの正統派アラブ人が埃だらけの毛布を持ってやって来た。車に乗れと言うので荷物をトランクに積んで乗り込む。tanakabuchoは助手席、家族は後部座席。埃だらけの毛布は運転席と助手席の間に置かれた。
幅広のアメ車で広くて快適だった。

北上の冒険はこの車と共に進んだ

料金は100ドルで交渉成立。「1回100ドル」と言うのもアラブの決まり文句だ。我々からすると100ドルで約200kmの距離を国境またいで5人乗っけて運んでくれれば飛行機よりは勿論安いし御の字だが、アラブ人から見たら相当の価値・金額だろう。
そう言うわけでアラブ旅行イコールUSダラー集めなので注意が必要だ。

古風な町並みが素敵なアンマン市街を抜けて、やがて車は砂漠の一本道に入り、国境に向けて北上する。
砂漠は砂ではなく砂礫が粒々で、ざらざらゴツゴツしたタイプだ。
車窓に見るものも何も無いが、道中にただひとつだけ、道路標識が有った。
「直進シリア、右折イラク」である。たまにイラクで日本人も犠牲になるが、彼らはそこを右折したに違いない。まったく南無阿弥陀仏な交差点である。

快適にとばしていたらどうやらスピード違反で捕まったらしい。ドライバーが降りて行き、警官と話し、しばらくして戻って来た。しかし例えばこの辺でHOLD-UPでもされたらイチコロだったなぁ。でもその辺はアラブよりむしろアメリカの方が危なかったりするんだろう。がめつさを除けば人は良いんだよなぁきっと、アラブ人は。

やがてドライブインが現れ、トイレへ行き小休止。ドライバーは後ろのナンバープレートを上げた中に有る給油口へ、ガロン缶から自分でガソリンを補給した。そしてドライブインの店でお菓子を大量に買い込んで車に積んだ。シリアで売るか卸すかするのだろう。

さて、いよいよシリア国境が近づいて来た。
シリアへ入るには緩衝地帯を通らねばならないから、陸路では車で無いと入国出来ない。
シリアへ近づいたのは一目瞭然で解る。アサド大統領のどでかい肖像画が道の両脇にずらりと並び始めるからだ(ちなみに今のアサド大統領は当時の大統領の次男)。
我々はこれから独裁者が君臨する社会主義国へ入るのである。

緩衝地帯前で一度パスポートと荷物のチェック。
国境で再度チェック。
イミグレーションは問題なく速やかに抜けた。ngaamが取ってきてくれたVisaのお陰である。
入国カードが硬い大きな紙(大昔の国鉄の硬券切符のでかいやつ)なので持ち歩きに難儀した覚えが有る。
ともかくもシリアへの陸路入国は割とあっけなく完了した。

シリア側の緩衝地帯を抜けて今一度チェックを受けた後、砂漠から徐々に町へ入って行く。
妹に電話をしたかったが今まで物理的に電話機が無かった。
その内、こじんまりとしたドライブインを見つけて休憩。電話機が有ったので電話を試みるが、結局掛け方がわからずに断念した。

このままホテルまで行けるのかと思いきや、ダマスカス(以下、ダマス)の街の中で「ヨルダンの車が入れるのはここまで」とドライバーに通告されると同時に群がってきたダマスのタクシー運ちゃん連中に勝手に荷物を出され積み込まれる。この「群がり」もアラブの日常茶飯事の光景だ。
大騒ぎしている運ちゃん連中から冷静に1台を選ぶ。

さて、ようやく妹と落ち合うホテルに着いた。
朝、アンマンに着いて、ダマスのホテル着は確か13時~14時頃だったか。ともかく旅前半の大冒険、陸路国境越え・社会主義国入りは無事に成し遂げた。

フロント(ここから先、店員や従業員はすべて男です)にMiss Junko Tanakaがチェックインしているかと聞くと、Yesと言って部屋番号を教えてくれた。

妹は、何の連絡も寄越して来ないが多分アンマンには着陸してるだろうはずの兄達にじれながらも、きっと来るだろうと早めにチェックインして待っていたらしい。
感動の再会の瞬間であったが、安堵でビールを飲んでしまったtanakabuchoはその辺の事を良く覚えていないのであるが。

【まとめ】
「2倍」「100ドル」「群れる男達」。初日に早くも3つのアラブ事情を学んでしまったのであった。

----
【再掲時追記<コラム>】 国境線が直線なのは何故?

普通の国境線は大河や山岳地帯の稜線だが、中東やアフリカ大陸の国境線には直線が目立つ。これは主に英仏列強が2点間を直線で結び、その線で領土を分けたためだ。
直線国境が多い地域は例外なく紛争が多い。
列強支配の頃と変わっていないのか、そもそも発展しにくい土地なので独立してからも安定出来ないのか。
中東ではさらに、クルド人に関係なく線が引かれた。
当時の列強の振舞いが今に禍根を残し、バグダッド陥落、イラク内戦ひいてはイスラーム国となり多数の難民を出している。
歴史は一旦ねじれると相当の時間を掛けても戻れないどころか、時間が経過するともっとねじれるものの方が多いらしい
----


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(1

tanakabucho一行シリア行きのスケジュールは確かこうだった。

1998年12月5日(土)バンコック0:30発アンマン行きロイヤルヨルダン(RJ)航空181便、アンマン着5:15(時差5h)。
その日は陸路国境超えでシリア・ダマスに入ったのが午後。SEMIRAMIS HOTELで妹と待ち合わせ。ここまでは既に書いた。
その晩から妹の家に泊まったはず。1F~半地下で3つ~4つ部屋が有る、古くて味の有る建物だった。

そこからはたぶんこんな感じだった。


  • 126日(日)ダマス市内観光とシリア人ウォッチング(アラブ人は余り面白くない。タイ人は面白い。このところ見て来たインドネシア人も面白かった)
  • 7日(月)運転手付ハイヤーを1日借り切って(100US$)、シルクロードのオアシスとして栄えた世界遺産「パルミラ」日帰り観光。ダマスから北へ200kmチョイのところ
  • Palmyra Theatre - http://panoramio.com/photo/7004390
  • 8日(火)ダマス滞在
  • 9日(水)同じくハイヤーを12日で借り切って(これも100US$(運転手の宿代含む))、アラブの北の果ての世界遺産「アレッポ」へ1泊観光。ダマスから約300km。あと60km上するとトルコ国境。宿泊したホテル名失念
  • 【参考】旅行のクチコミサイト フォートラベル
  • http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/aleppo/travelogue/10390904/
  • 10日(木)アレッポと周辺の観光後、ダマスへ戻る
  • 11日(金)朝8:00頃に妹と別れ、妹宅を運転手付ハイヤーで出て一路南下し、再度国境を越えてアンマンを通り越しぺトラ遺跡へ。国境を挟み距離約450kmと言う長旅(これもまた100US$)。ペトラ遺跡近くで予約無しで飛び込んだドミトリー、Petra Moon Hotel泊。5人用相部屋をちょうど貸切り。朝飯付5人で1円以下だったはず。晩飯は近所のホテルへ食いに行った。結婚式をやってて日本人は珍しがられた
  • General view of the Treasury. Petra, Jordan. - http://panoramio.com/photo/21705248
  • 12日(土)ペトラ遺跡観光。遺跡内の案内所で今晩のホテルを尋ねたところ、★★★★★Taybet Zaman Hotel & Resortを紹介してくれた。最後の晩なので奮発して堪能した
  • Taybeh - Hotel Taybet Zaman - http://panoramio.com/photo/7560170
  • 13日(日)ゆっくりとホテルをチェックアウトしてハイヤーを借りる。30US$くらいで交渉したと記憶している。死海に寄ったりしつつ、アンマン・クイーンアリア空港22:00発のRJ180便でバンコックへ出発14日(月)午前中にバンコック空港着。
  • 一目散に空港の日本料理屋へ行って「うどん」を喰った

 --Details--

12月7日、パルミラ観光


シリアは男尊女卑のイスラム教国なので街中には女性はまったく居ない。ホテルもレストランも雑貨屋も係員や店員はみんな髭を生やした暑苦しい男である。
たまーに女性が居ると真っ黒な頭巾を上から下まで被っている(亭主以外に姿を見せちゃいけないんだと)。そう言うわけでまったくもって華の無い国である。

そこにtanakabucho一行である。
妹とその友達も連れているので「男tanakabucho以外は母親、女房、長女、次女、妹、妹の友達と言う男1:女6」と言うシリア人の男ども垂涎の一行となっている。
みんな羨ましそーぅに見てたので堂々と連れてゾロゾロと道の真ん中を歩いた。
しかしながらさばき方は結構大変で、レストランに入る度に「ミスター。ファーストマダムはどちらでしょうか?」とうやうやしく聞かれるので面倒くさいから年功序列で母親を1st.にしておいた。

パルミラは273年に陥落、廃墟になりその後放置されたとある。ダマスは世界一早くから人が住み始めた町、と言われているが、それにしても旧い歴史を持ったところである。
文明の源、チグリス・ユーフラテス川も今はイラク。
キャラバンの当時に流れていた悠久の時間は、近年になってねじ曲がってしまったらしい


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(2)

12月9日~10日 アレッポ観光


アレッポの名産品はオリーブ石鹸だ(沢山買い込み過ぎて、後に帰り便の手荷物が重くて苦労することになる)。
アレッポはダマスにつぐ大都市で、ヨーロッパの入口、トルコに近い。

シリアは社会主義国でスーパーマーケットのようなものは無いので、買い物はスークと呼ぶ市場、または雑貨屋(ドカーンと呼ぶので笑える)で買うしかない。

アレッポの巨大スークに迷い込むともう異次元だ。迷路のように細い路地が続き店がひしめく。ロバなんかも普通に連れて入って来るので我々からすると日常が阿鼻叫喚である。
日本人を見かけると、オートーマキマキオートーマキマキと店員の青年たちが歌いだした。良く聞くと「糸巻き巻き糸巻き巻き引いて引いてトントン・・・」の歌だった。JICAやODAの日本人から教わったんだろう。嬉しい瞬間だ。

ホテル名は失念したが、市街中心部の綺麗なホテルに泊まった。
ベルボーイは我々を部屋に案内した時に「私の英語がpoorで済みません、私はクルド人なので」と流暢な英語で言った。
知らない世界に来ていると言うことを実感する瞬間である。

アレッポ城は高台に築かれた広大な城で、外周を回れたように思う。
ひとりだけ離れて歩いている時に、アラブ人2カップル集団とすれ違った。生意気そう(で金持ちそう)な♂に「マルハバ」と挨拶したら「トルコ野郎!(It's Turkish!)」と言いやがった。
マルハバはアラビア語口語体の、こんにちわである。むっとしたがそれだけでは引き下がらずにすかさず「アッサレームアレイクム」と返したら今度はハグして来た。
アッサレーム~はイスラム共通の挨拶で、「神の御加護のもとに」みたいな意味だ。

言葉を多少なり覚えていれば海外生活での安全度合いは高まる。
連れのLady達はグラマラスで美人だったがきっと今頃はジャンボになっていることだろう。

ホテルの窓からカルナック(遠距離バス会社)バスの車庫が見えたが、日本の成田・羽田空港リムジンと同じ車体・デザインだったのが妙に印象的だった。

アレッポから数十km北の街や城、モスクなどにも行ったのだが、残念ながら詳しいことは忘れてしまった。トルコ国境まであと30km位のところまで行ったんだけどね


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(3)

シリア面白話①

シリアの紙幣には銀行のスタンプが押してある。ダマス滞在中に妹がJICAの給料を貰って来た。
100US$札が数枚あったが1/3ほどが偽札だった。

かつて精巧なコピーを誇ったSuper-Kなら我々一般人にはわからないが、明らかに紙質がヘボく、しかも印刷が曲がっているので一目瞭然で偽札である。でも銀行のスタンプは同じように押してある。即ち「偽札も普通に使える」のだ。
が、さすがに使えるのはシリア国内だけ。
よってシリアにおける偽札は「ババ抜きのババ」みたいなもんで、掴んだら出来るだけ早く使ってしまわなければならない。
「あと何枚か有るからお兄ちゃん、交換して」と妹からtanakabuchoの手に移ったババは合計10枚ほど。これらはハイヤーの運転手やアレッポのホテル代などに還元させて頂きました。
駐在者は余り旅行など行く機会が無いから、偽100US$の使途は悩みの種らしい。
ちなみにシリアの正式通貨はシリア・ポンド。軒並みくしゃくしゃの札で、経済の疲弊を感じさせる。
しかしさすが悪の枢軸国シリア。北朝鮮ももっと真面目に偽札を作りなさいね(1998年当時の実話です)

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(4)
シリアがもうすぐ壊れそうなので、アラブ探検記後半戦を書いておこう。

19981211日(金)、ダマスカスから国境越え→ヨルダンの首都アンマンを越えてかの「ペトラ遺跡」まで、アラブ人運転手をいつもの100US$で雇った。
運転手の名前はアブ・シャーディ。シャーディの父、と言う意味だと言っていたが、シャーディの意味は忘れた。
ペトラまでは直線でも370km、道のり450kmと言う長旅だ。国境まで120km位なので所要1.5h~2h、国境でトラブって2h掛かったとしてここで昼、残り330kmを時速80kmで走って4h。夕方遅くにはペトラに着くだろうと気楽に計算した。
妹がなけなしのカリフォルニア米を炊き、海苔も具も無い塩むすびを作ってくれた。弁当に有りがたく頂き、ワゴン車に乗り込む。ワゴン車はDAEWOOかHyundaiの韓国車だった。
妹と別れ、さてこれからはペトラ遺跡観光を主とする後半戦の始まりだ。

ペトラ遺跡にこだわったのは勿論、インディ・ジョーンズ/最後の聖戦の舞台になった場所だからだ。ジョーンズの親父ヘンリー(ショーン・コネリー!)と2人で馬に乗り、シークと呼ばれる、まさに神の鉄槌一撃で出来たかのような岩の間の細い通路を走り切ると紅色に光る姿を現すエル・カズネ(宝物殿)。
垂涎の地であるここに行くのに、今回の機会を逃す手は勿論無かった。

車はダマス市街から南下し、やがて国境。家族を車に残して手続きをしに行く。運転手は自分の分だけ手続きをする。何が会話されているのか皆目わからん事務所で5通出したパスポートの内、30~40分待たされて帰って来たのは4通だけで、お袋の分が無かった。もう1通有ると尋ねるがなかなか埒(らち)が開かず、かと言って放置されているわけでも無いのでさらに30分ほど待ってもう一度「5通目のパスポートをくれ」と言った。事務所で腰かけて待っているとその内、ジャパニーズ!と呼ばれたので出頭(?)すると、本人を連れて来いと言う。
車に戻り、本人を連れて来て見せると途端にOKになり、パスポートが返却された。
車に戻ると運転手が「何か有ったのか?」と聞いた。助けろっての、困ってんだから。
その昔、日本赤軍も通ったであろう、この国境。
思うに、赤軍にTanaka Kazuo(お袋の名はカズヨ)みたいなブラックリストがあって、日本人の名前なぞ良くわからんアラブ人が警戒したのか知らんが、お袋は世界でも有数の安全な人物であることはその姿を見れば一目瞭然であろう(余裕の(笑))
ともかくこうして、国境でトラブって2h、は的中したものの社会主義国・独裁国家から観光立国・資本主義のアンマンへ再入国することが出来た。車はアンマン市街に向けて砂漠の間を南下する。

注) アンマンへ再入国の地図の通り、アラブの地図にはイスラエルと言う国は存在しない
シリアの入国カード。固くてでかくて邪魔だった
アンマン市街からペトラ方面へ南下する道路は2つある。砂漠の間をひた走るThe King's Highwayと、死海沿いを走るもうひとつの道だ(名前失念)。The King's Highwayは飛ばせるが景色が単調(砂漠のみ)なので運転手に指示して死海沿いの道を走らせる。
時間が少し有りそうなのでカラク城に寄り道することにした。十字軍の城だ。運転手に言うとOTOver Time)は+30$とか言って来たので確か半額位で交渉した。古く広大で、且つ生活感も感じる不思議なお城だった。壁画(天井画)が綺麗な教会にも寄った覚えがある。
確かこの辺で夕方16時頃になり辺りも薄暗くなり始めた。
カラク考古学博物館の入場券。どうやら博物館に入ったらしい
車はすぐに暗闇の中を突っ走り始めた。街灯も無い本当に漆黒の闇をぶっ飛ばすので怖いが、慣れてるんだろう、と信頼する(しか無い)。

ペトラが近づいて来たのでアブ・シャーディに、安いホテルを教えてくれと頼んだ。
着いたのはPetra Moon Hotelだった。HitしたWebサイトで見ると立派なホテルだが当時はドミトリーの安宿だった。チップを渡してアブ・シャーディは消えた。
物持ちが良いというか、Petra Moon Hotelの名刺があった

何とホテルの名刺の裏にあのアブ・シャーディ直筆サインが! 
普段なら5人相部屋になる部屋を丸ごと借りた。全員で1万円はしなかった。
晩飯は奮発することにしてすぐそばの☆☆☆☆ホテルへ歩いて行き、そこのレストランで喰った。ちょうど結婚式をやっていて日本人は珍しがられた。中華かなんか喰ったと思われる。

部屋に戻るとコンセントの形状が違い、ビデオカメラのバッテリーを充電出来ないことがわかった。近所の店を覗くがお土産屋みたいのばかりで電気部品など置いていそうもない。
仕方なく(と言うか当然)、TVと暖房を除けば唯一の電気器具であるライトスタンドを分解して線を使わせて頂いた。旅には小型のプラスドライバーとビニールテープは必須アイテムである。翌日泊まった方には灯りが点かなくて済まなかった。

翌朝ホテルでメシを喰い、何と昼飯の弁当まで支給された(ポリ袋にコッペパン1個とキュウリ1本(貧乏バックパッカー向けだね(泣)))。
ペトラ遺跡はもう目の前。

さーていよいよぼったくりPetraランドへ突入だ!


アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(5
もうすぐ壊れそうなシリアからは既に脱出済み。アラブ探検記、後半も後半に突入!


ペトラは凄いところだ。まず入場料がべらぼうに高い。幾らかは忘れたが何でも急に何十倍に値上げされたとかで、確かTDL以上の価格設定だったと記憶している。次に乗り物である。ラクダ、馬車、馬、ロバなど揃っているが皆協定価格だからどこで乗っても割高だ。観光立国も外国人からのぼったくりじゃ困る。

まずは入場券を買いシークと呼ばれる崖の間の通路を歩きでスタートする。早速馬車に乗った観光客が追い越して行く。
やがてエル・カズネ(宝物殿)が現れる。太陽が当たると絶妙な紅色に映える、一枚の岩盤を掘った荘厳な遺跡だ。
映画ではインディが中に入り様々な仕掛けを解くのだが、中には部屋がひとつあるだけだ。


超巨大な彫り物だ

ここから先のペトラ「園内」は広大だ。
地図を使いながら当時の行程を説明すると、①から入ってシーク通路を通り④がエル・カズネ。ここでラクダ5頭のキャラバンを組んで、確か22の辺りまで移動。ここから登り道に入るのでラクダからロバに乗り換える。僕のロバに乗ってくれ、尻が大きい、乗り心地が良い等々喋りまくる小僧どもに一斉に囲まれる。
そんな時は「ハラース!」と言う。シャラップ、静まれ小僧ども!のアラビア語である。
一瞬にしてシーンとなる。
その中から小僧の性格が良さそうで一番でかいロバを選んでまずお袋を乗せる。
そうして順々に小僧とロバを選んで家族を乗せて行く。
手綱を引かれたロバは隘(あい)路をザクザクと登る(ラクダもロバも、アラブ人小僧の御者が付いている)。歩いて登る人も居るが相当きつい。tanakabuchoも撮影に徹しようと当初歩きで登ったが途中でバテて、リュックサックを小僧に背負わせた。やがて24番、丘の上にエル・カズネに似た彫り物が現れる。

ロバは登りだけで帰路(下り)は危険なので人を乗せない。
階段をひたすら下るので娘たちに段数を声に出して数えさせていたら「日本語は久しぶりですぅ」と放浪ジャパニーズ(♂)が寄って来た。
お仕事ですか?と聞くので
「私はヨルダンの日本大使館員だがある特別な任務についていて、シリア政府にばれると殺されるからここで日本人家族と会ったことを他人に話してはならない」と真面目な顔で言ったら信じてしまった。
確かに、6歳と4歳の娘を連れて日本人家族が観光に来ているとは思わないところだ。


まさにキャラバンを組んだ

この年でアラブツアーとは立派!

階段を下まで降りて来て22の考古学博物館を覗き、7~13の墓の群れを見つつ、6番付近に有った観光案内所で今晩のホテルを紹介してもらった。
TAYBET ZAMAN Hotel & Resortがお薦めだと言うので、5ツ☆で値段は張るが最後の晩なので贅沢しようと、そこに決めた。

夕方になると協定価格にも値引きが入って来る。
帰路の④から①までは少々ディスカウントした馬車で移動した。シークのごつごつの石畳を結構なスピードで、馬車はかっ飛ばした。強行軍だったがラクダ、ロバ、馬(馬車)となかなか面白い行軍であった。

ペトラ園外へ出てホテルへ戻り、預けておいた荷物を積んで、タクシーでTAYBET ZAMANへ移動した。

以上、ペトラ遊園地報告終わり。

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(6 最終回)


1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルであるタイベット・ザマーンにチェックインした。
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、僻地長旅の最後の晩にふさわしいところだった。
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人中学生~高校生女子20人ぐらいの一団がやって来て、責任者の先生から「部屋の中を見せて下さい」と頼まれる。
断る必要もなくどうぞ、と行ったら騒々しくどやどやと部屋に入って来てワンダフルみたいなことを言って娘たちと写真を撮ったりして消えた。社会科見学だったのだろうか。
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマンQueen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、翌朝はゆっくりチェックアウトすることにして朝10時頃にタクシーを呼んだ。


翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャーターしたタクシーに乗り、まず死海を目指した。
死海と言うのはたいそう不思議なところで、まず世界一海抜が低い湖でマイナス400メートルである。
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、生物が棲めないほど塩分が濃くなったので死海(Dead Sea)と呼ばれる。
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、湖面は徐々に低下している。
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、ここに砂漠の真ん中の奇跡が有って、死海が近づくと緑が見え出す。作物がなっているのだ。
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみずみずしく映った。
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆られたがここはヨルダンだったと思いだしてあきらめた。
死海の水は噂通り辛かった。

ここでも運転手と交渉して幾つか観光に回った。
夕方、17時過ぎくらいにQueen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。空港利用料の支払いにクレジットカードが使えず、大切に使って来たUS$が底をついた。止む無く、滅茶苦茶低いレートで1万円札を両替した覚えがある。

やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック  ドン・ムアン国際空港へ運んだ。
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内の日本料理屋「日本亭(にっぽんてい)」へ入り、一目散にうどんを喰った。心底美味かった。


当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。きっと今でも変わっていまい)

  • 外貨ぼったくり&外貨亡者
  • ヨルダンは観光立国と名乗っているだけあって英語が通じて便利(シリアでも通じたが)
  • 主食が豆なのでメシが結構厳しい。世界各国各地域いろんな主食が有るが、豆のところが旅行者には一番キツイのではないかな?(次女(当時4歳)は「こんなごはんもうやだ!と1回だけ騒いだ」)
平和だったあの頃の町並み
【追記】
帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(米英によるイラク空爆)が行われた。この旅行が1週間遅れていたら行けなかった。そもそもバンコックに住んでて情報に疎かったからなのか、そんな作戦が進んでいるとはつゆ知らず、であった。
娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのおばさん)を連れて翌年もう一度シリアへ行った! 今度はドイツ→トルコ経由で入ったらしい。恐るべしパワーである!
 人類が最初に住みついた町ダマスカス
 長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
 ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
 すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みません。
-了-