2016年3月11日金曜日

3.11に寄せて

5年前の3.11。午前中に部会を終えて昼飯を喰い、今週の仕事もあとわずか数時間。上司は仙台の店長集会へ行っていて不在、その他の部長もリテールテックへの外出者がほとんどで、静かな、のんびりした金曜日だった。
急変したのは14:46。

サンシャインビル26Fは大いに揺れ、机につかまらなければ歩けないほどになった。窓ガラスが割れるのが怖くて少し離れ、蛍光灯が落ちて来ても大丈夫なように真下を避けた。本部員がみなめいめいに机の下に隠れるのを見て安心して仁王立ちを続けた。こう言う時はどっしり構えるのが良いと思って仁王立ちしていた。ヘルメットの位置も確認した。念のためドアを開けさせた。
生命の危機も少し感じていたが、しっかりと落ち着いていた。

ふと振り向いて外を見ると、向かいの16F建てのビルが左右に大きく揺れていた。こんなに大きなビルが揺れるのを初めて見たが、後刻、揺れていたのはサンシャインビルの方だったとわかる。
地上を見下ろすと沢山の人がビルから地上に降りてサンシャインビルを見上げていた。きっとグルングルンと大きく揺れていたんだろう。
何分も揺れは続き、収まった後はギシギシと大きな船のように揺れ続けた。廊下に出てみると柱がこすり合ってカーペットの上に粉を吹いていた。

とりあえず27F総合企画部に行くと仙台へ行っていなかったK常務が居られ、当面の陣頭指揮を取ってくれることになった。まず今日17:15、次は明朝7時に対策会議を行う、と決まった。
帰るわけには行かないが、家族の安否確認には時間が掛かりやきもきした。数名の部員を指名し、帰宅せず残るよう指示した。
やがてテレビに津波の映像が流れ始めた。CGじゃない本物の津波の恐ろしさをまじまじと見た。

全マネジャーを2601会議室へ集めて、①徒歩で帰れる者は帰す ②交通機関の情報を把握し、安全に帰れる者は帰す と、独断で決めて指示した。
最大40名は残りそうだと目星を付け、2万円渡して全額食い物と飲み物を買って来るよう指示した。買い出し部隊はエレベータが止まったサンシャインビルの階段を26F降り、再び重たい荷物を持ちながら26Fまで階段で登って来ると言う殊勲者たちだった。2601会議室に苦労して買って来てくれた食い物と飲み物を並べる。

まだ3月、冬である。外は既に暗くなった。
もう一度マネジャーを集めて、①暗くなったので帰らず朝を待つことを基本とする ②女性は、マネジャーが送るか、家族などが迎えに来ない限り帰さない を指示した。
女性用に暖房が利く部屋を、と思ってPOS部屋を調べたが残念ながら冷房だけしか無かった。
女性には申し訳ないがプライバシー空間も何もないままオフィスで一夜を過ごして貰った。

テレビで津波の映像が繰り返し流れる。津波は水のはずなのに燃えながら流れているものも有る。製油所か何かが燃えている。地獄絵図以外に、 肝心な現地からの情報なんてものは何も入って来ない。
余震も続く。
14:46、震度7の本震の後から翌朝7時までの間に震度5弱以上の余震が何と17回も有った。何故か12日未明の3連発は震源地が長野県北部だった。17回の中には震度6強が2回、震度6弱も2回含まれていた。
サンシャインビルは一晩中揺れ続けた。深夜に部長机でウトウトするとすぐに揺れで起こされた。悶々としながら長い夜を過ごした。

3/12(土)朝7時の会議。一発目の報告書は以下の内容だった。 

3.11-1

 
過日走った国道6号線1F付近の惨状は以前のまま。
津波被害が酷かった南相馬では朽ちた家や壊れた車はまだそこかしこに残っていた。
津波の怖さを伝える為に、後世に引き継ぐのは動画しかない。
どこに避難していれば生き延びる可能性が有ったのか、辛いのも我慢して見て、その中から学ぶしかないのだ

2016年3月6日日曜日

3.11 間もなく5年

サンシャイン60ビル26Fでも生命の危険を感じたあの大地震から間もなく5年。
この間に仙石線はつながり石巻線の終点女川駅は高台へ移って運転を再開し、常磐線は少し延び、常磐自動車道も国道6号線も通れるようになった。
しかし違和感がある。
それは津波そのもので生活を失った被災者たちと、津波起因にしろ危険なものを運転していて世界最大級のメルトダウン事故を起こした1F(福島第一原発)のせいで生活を失った被災者たちとは違うと言うことだ。
富岡町〜大熊町〜双葉町から浪江町へ至る国道6号線は2014年に通行制限を解除したが、未だに両側にはバリケードが続き、帰還困難区域となり町自体が放棄された異様な光景が連なる。
15年12月には、バリケードの中に有った双葉町の飾り「原子力 明るい未来のエネルギー」看板も撤去された。
原子力安全神話はもろくも崩れ去ったが、なお一層悲劇的なのは1Fの現状について、1Fを取り巻く町と人の今後について、1Fの廃炉の進み具合について、なにひとつ易しい説明がされないと言うことだ。
このことは東京電力のホームページを見るとよく分かる。一応「状況について(日報)」などとしおらしく書いているが、

  • たくさん書いておけば面倒がって全部読むまい
  • すべて情報開示した風にしておけば世論を黙らせられる。
  • 仕方なく専門用語で情報開示しているので、意味がわからないならそれは読む側が悪い

見え見えである。
廃炉には30年も40年も掛かると聞く。
その間、民衆を愚弄し続けるのか。やがて世代が変われば世論は変わると思っているのか。
確かに完全復興は次世代に託される。もしかすると3.11には生まれていなかった世代が中心になるかも知れない。

  • 2011.3.11にフクイチで本当は何が起きたのか
  • 日本は世界の中で何を失ったのか
  • 政府や東電は幾つ嘘をついたのか、騙したのか

こっぴどいしっぺ返しを喰うのは、近い将来のニッポンである。
この5年間の、真っ当な振り返りを政府と国民はきちんとすべきであろう

看板だけが残って店は無くなってしまった。看板だけが見事に綺麗なまま立っていた
(帰還困難区域では無い南相馬市小高区 2016.3.5)

2016年3月1日火曜日

デビルが運用部を卒業

2016年2月29日のうるう日を最後に、デビルが優秀な成績でデビルと運用部を卒業しました。皆さん長い間デビルを応援して下さりありがとうございました

2016年1月1日金曜日

謹賀新年!

申年、去る者は追わず
今年も一所懸命ハッスルしましょう!
2016年元旦