2012年11月14日水曜日

真剣な紅葉狩り!

2012年11月10日(土)~11日(日)
塩原温泉郷~日塩もみじライン~龍王峡(混んでて寄れず)~鬼怒川温泉駅(駅そばのラーメン屋(演歌歌手 五郎経営)八海山で、もやもやさまぁ~ず「五郎」餃子)~鬼怒川ロープウェイ~東武日光駅(あげゆばまんじゅう)


会津田島行き東武鉄道鬼怒川線快速

東武日光駅にて。JR品川駅行き!



2012年11月10日、塩原「紅の橋」(紅の豚ではない)


色とりどりだが赤が強烈

ホントに日本は良い国

2012年8月16日木曜日

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(6 最終回)

1998年12月12日。
ペトラを堪能した我ら一行は5ツ☆リゾートホテルであるタイベット・ザマーンにチェックインした。
独立した「穴倉風」コテージ風が連なるリゾートで、僻地長旅の最後の晩にふさわしいところだった。
素晴らしい部屋にチェックインしてのんびりする間もなくアラブ人中学生~高校生女子20人ぐらいの一団がやって来て、責任者の先生から「部屋の中を見せて下さい」と頼まれる。
断る必要もなくどうぞ、と行ったら騒々しくどやどやと部屋に入って来てワンダフルみたいなことを言って娘たちと写真を撮ったりして消えた。社会科見学だったのだろうか。
晩飯はリゾートの素敵なレストランで喰えた。
アンマンQueen Alia空港発バンコック行きフライトは夜10時なので、翌朝はゆっくりチェックアウトすることにして朝10時頃にタクシーを呼んだ。

リゾート内地図
翌13日。チェックアウトした我らは確か30US$位でチャーターしたタクシーに乗り、まず死海を目指した。
死海と言うのはたいそう不思議なところで、まず世界一海抜が低い湖でマイナス400メートルである。
海水が閉じ込められた後で水分が蒸発し、生物が棲めないほど塩分が濃くなったので死海(Dead Sea)と呼ばれる。
ヨルダン川から水は流入しているものの蒸発する方が多いので、湖面は徐々に低下している。
海抜が低いので死海に向かっては道を相当下って行くのだが、ここに砂漠の真ん中の奇跡が有って、死海が近づくと緑が見え出す。作物がなっているのだ。
特に赤く熟したトマトは砂漠を見慣れた目にかなりどぎつく且つみずみずしく映った。
桃太郎トマトみたいな立派な出来で、1箱買って行きたい衝動に駆られたがここはヨルダンだったと思いだしてあきらめた。
死海の水は噂通り辛かった。

ここでも運転手と交渉して幾つか観光に回った。
夕方、17時過ぎくらいにQueen Alia空港へ到着して出国審査とチェックインをした。
ガランとした空港で腹ごしらえしながら搭乗時刻を待った。空港利用料の支払いにクレジットカードが使えず、大切に使って来たUS$が底をついた。止む無く、滅茶苦茶低いレートで1万円札を両替した覚えがある。

やがてロイヤルヨルダン航空180便は離陸し、我々をバンコック  ドン・ムアン国際空港へ運んだ。
かつおだし醤油味にかなり飢えていた我々一行はそそくさと空港内の日本料理屋「日本亭(にっぽんてい)」へ入り、一目散にうどんを喰った。心底美味かった。

当時のアラブまとめ
(進化が止まりようやく民主化運動が始まった地域。きっと今でも変わっていまい)
  1. 外貨ぼったくり&外貨亡者
  2. ヨルダンは観光立国と名乗っているだけあって英語が通じて便利(シリアでも通じたが)
  3. 主食が豆なのでメシが結構厳しい。世界各国各地域いろんな主食が有るが、豆のところが旅行者には一番キツイのではないかな?(次女は「こんなごはんもうやだ!と1回だけ騒いだ」)
【追記】
  1. 帰国3日後の12月16日に砂漠の狐作戦(米英によるイラク空爆)が行われた。この旅行が1週間遅れていたら行けなかった。そもそもバンコックに住んでて情報に疎かったからなのか、そんな作戦が進んでいるとはつゆ知らず、であった。
  2. 娘に会いたい母親は何と、自分の妹(tanakabuchoのおばさん)を連れて翌年もう一度シリアへ行った! 今度はドイツ→トルコ経由で入ったらしい。恐るべしパワーである!
  • 人類が最初に住みついた町ダマスカス
  • 長旅のキャラバンが立ち寄るシルクロードのオアシス、パルミラ
  • ヨーロッパとアラブの文化が混じり合う街アレッポ
すべてが破壊される前にシリア内戦が終わることを願って止みません。
-了-







2012年7月25日水曜日

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(5)

もうすぐ壊れそうなシリアからは既に脱出済み。アラブ探検記、後半も後半に突入!


ペトラは凄いところだ。まず入場料がべらぼうに高い。幾らかは忘れたが何でも急に何十倍に値上げされたとかで、確かTDL以上の価格設定だったと記憶している。次に乗り物である。ラクダ、馬車、馬、ロバなど揃っているが皆協定価格だからどこで乗っても割高だ。観光立国も外国人からのぼったくりじゃ困る。


まずは入場券を買いシークと呼ばれる崖の間の通路を歩きでスタートする。早速馬車に乗った観光客が追い越して行く。
やがてエル・カズネ(宝物殿)が現れる。太陽が当たると絶妙な紅色に映える、一枚の岩盤を掘った荘厳な遺跡だ。
映画ではインディが中に入り様々な仕掛けを解くのだが、中には部屋がひとつあるだけだ。


ここから先のペトラ「園内」は広大だ。
地図を使いながら当時の行程を説明すると、①から入ってシーク通路を通り④がエル・カズネ。ここでラクダ5頭のキャラバンを組んで、確か22の辺りまで移動。ここから登り道に入るのでラクダからロバに乗り換える。僕のロバに乗ってくれ、尻が大きい、乗り心地が良い等々喋りまくる小僧どもに一斉に囲まれる。
そんな時は「ハラース!」と言う。シャラップ、静まれ小僧ども!のアラビア語である。
一瞬にしてシーンとなる。
その中から小僧の性格が良さそうで一番でかいロバを選んでまずお袋を乗せる。
そうして順々に小僧とロバを選んで家族を乗せて行く。
手綱を引かれたロバは隘(あい)路をザクザクと登る(ラクダもロバも、アラブ人小僧の御者が付いている)。歩いて登る人も居るが相当きつい。tanakabuchoも撮影に徹しようと当初歩きで登ったが途中でバテて、リュックサックを小僧に背負わせた。やがて24番、丘の上にエル・カズネに似た彫り物が現れる。


ロバは登りだけで帰路(下り)は危険なので人を乗せない。
階段をひたすら下るので娘たちに段数を声に出して数えさせていたら「日本語は久しぶりですぅ」と放浪ジャパニーズ(♂)が寄って来た。お仕事ですか?と聞くので「私はヨルダンの日本大使館員だがある特別な任務についていて、シリア政府にばれると殺されるからここで日本人家族と会ったことを他人に話してはならない」と真面目な顔で言ったら信じてしまった。
確かに、6歳と4歳の娘を連れて日本人家族が観光に来ているとは思わないところだ。


階段を下まで降りて来て22の考古学博物館を覗き、7~13の墓の群れを見つつ、6番付近に有った観光案内所で今晩のホテルを紹介してもらった。
TAYBET ZAMAN Hotel & Resortがお薦めだと言うので、5ツ☆で値段は張るが最後の晩なので贅沢しようと、そこに決めた。


夕方になると協定価格にも値引きが入って来る。
帰路の④から①までは少々ディスカウントした馬車で移動した。シークのごつごつの石畳を結構なスピードで、馬車はかっ飛ばした。強行軍だったがラクダ、ロバ、馬(馬車)となかなか面白い行軍であった。


ペトラ園外へ出てホテルへ戻り、預けておいた荷物を積んで、タクシーでTAYBET ZAMANへ移動した。

以上、ペトラ遊園地報告終わり。
(続く)















2012年7月24日火曜日

アラブ探検記/シリア・ヨルダン自遊自在(4)

シリアがもうすぐ壊れそうなので、アラブ探検記後半戦を書いておこう。

1998年12月11日(金)、ダマスカスから国境越え→ヨルダンの首都アンマンを越えてかの「ペトラ遺跡」まで、アラブ人運転手をいつもの100US$で雇った。運転手の名前はアブ・シャーディ。シャーディの父、と言う意味だと言っていたが、シャーディの意味は忘れた。
ペトラまでは直線でも370km、道のり450kmと言う長旅だ。国境まで120km位なので所要1.5h~2h、国境でトラブって2h掛かったとしてここで昼、残り330kmを時速80kmで走って4h。夕方遅くにはペトラに着くだろうと気楽に計算した。
妹がなけなしのカリフォルニア米を炊き、海苔も具も無い塩むすびを作ってくれた。弁当に有りがたく頂き、ワゴン車に乗り込む。ワゴン車はDAEWOOかHyundaiの韓国車だった。
妹と別れ、さてこれからはペトラ遺跡観光を主とする後半戦の始まりだ。

ペトラ遺跡にこだわったのは勿論、インディ・ジョーンズ/最後の聖戦の舞台になった場所だからだ。ジョーンズの親父ヘンリー(ショーン・コネリー!)と2人で馬に乗り、シークと呼ばれる、まさに神の鉄槌一撃で出来たかのような岩の間の細い通路を走り切ると紅色に光る姿を現すエル・カズネ(宝物殿)。
垂涎の地であるここに行くのに、今回の機会を逃す手は勿論無かった。

車はダマス市街から南下し、やがて国境。家族を車に残して手続きをしに行く。運転手は自分の分だけ手続きをする。何が会話されているのか皆目わからん事務所で5通出したパスポートの内、30~40分待たされて帰って来たのは4通だけで、お袋の分が無かった。もう1通有ると尋ねるがなかなか埒(らち)が開かず、かと言って放置されているわけでも無いのでさらに30分ほど待ってもう一度「5通目のパスポートをくれ」と言った。事務所で腰かけて待っているとその内、ジャパニーズ!と呼ばれたので出頭(?)すると、本人を連れて来いと言う。
車に戻り、本人を連れて来て見せると途端にOKになり、パスポートが返却された。
車に戻ると運転手が「何か有ったのか?」と聞いた。助けろっての、困ってんだから。
その昔、日本赤軍も通ったであろう、この国境。
思うに、赤軍にTanaka Kazuo(お袋の名はカズヨ)みたいなブラックリストがあって、日本人の名前なぞ良くわからんアラブ人が警戒したのか知らんが、お袋は世界でも有数の安全な人物であることはその姿を見れば一目瞭然であろう(余裕の(笑))
ともかくこうして、国境でトラブって2h、は的中したものの社会主義国・独裁国家から観光立国・資本主義のアンマンへ再入国することが出来た。車はアンマン市街に向けて砂漠の間を南下する。

注) アンマンへ再入国の地図の通り、アラブの地図にはイスラエルと言う国は存在しない

シリアの入国カード。固くてでかくて邪魔だった
アンマン市街からペトラ方面へ南下する道路は2つある。砂漠の間をひた走るThe King's Highwayと、死海沿いを走るもうひとつの道だ(名前失念)。The King's Highwayは飛ばせるが景色が単調(砂漠のみ)なので運転手に指示して死海沿いの道を走らせる。
時間が少し有りそうなのでカラク城に寄り道することにした。十字軍の城だ。運転手に言うとOT(Over Time)は+30$とか言って来たので確か半額位で交渉した。古く広大で、且つ生活感も感じる不思議なお城だった。壁画(天井画)が綺麗な教会にも寄った覚えがある。
確かこの辺で夕方16時頃になり辺りも薄暗くなり始めた。

カラク考古学博物館の入場券。どうやら博物館に入ったらしい
車はすぐに暗闇の中を突っ走り始めた。街灯も無い本当に漆黒の闇をぶっ飛ばすので怖いが、慣れてるんだろう、と信頼する(しか無い)。

ペトラが近づいて来たのでアブ・シャーディに、安いホテルを教えてくれと頼んだ。
着いたのはPetra Moon Hotelだった。HitしたWebサイトで見ると立派なホテルだが当時はドミトリーの安宿だった。チップを渡してアブ・シャーディは消えた。

物持ちが良いというか、Petra Moon Hotelの名刺があった

何とホテルの名刺の裏にあのアブ・シャーディ直筆サインが! 
普段なら5人相部屋になる部屋を丸ごと借りた。全員で1万円はしなかった。
晩飯は奮発することにしてすぐそばの☆☆☆☆ホテルへ歩いて行き、そこのレストランで喰った。ちょうど結婚式をやっていて日本人は珍しがられた。中華かなんか喰ったと思われる。

部屋に戻るとコンセントの形状が違い、ビデオカメラのバッテリーを充電出来ないことがわかった。近所の店を覗くがお土産屋みたいのばかりで電気部品など置いていそうもない。
仕方なく(と言うか当然)、TVと暖房を除けば唯一の電気器具であるライトスタンドを分解して線を使わせて頂いた。旅には小型のプラスドライバーとビニールテープは必須アイテムである。翌日泊まった方には灯りが点かなくて済まなかった。

翌朝ホテルでメシを喰い、何と昼飯の弁当まで支給された(ポリ袋にコッペパン1個とキュウリ1本(貧乏バックパッカー向けだね(泣)))。
ペトラ遺跡はもう目の前。

さーていよいよぼったくりPetraランドへ突入だ!
(続く)