2016年3月11日金曜日

天皇陛下「国民が心を一つに寄り添って」 おことば全文

天皇陛下「国民が心を一つに寄り添って」 おことば全文

東日本大震災5周年追悼式
 東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
 5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。
 このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。
 地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。
 こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。
 あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。
 困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
 日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。
 今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

3.11によせて-2

被災地対応のはずが、週が明けた3/14(月)からは全く別の問題に切り替わった。
「東電計画停電(輪番停電)問題」で有る。これにより大震災対応は東北の600店舗から関東圏3,400店舗にまで波及・拡大してしまった。

3.11は津波被害と原発被害(東電問題)の2つに分けて考えなければならない。

即ち双葉町と陸前高田市の被災内容と復興方針はまるで異なる。
我々の3.11戦後処理が大変だったのも、被災地対応のみで無く、首都圏店舗も巻き込まれたことに他ならない。被災地対応だけなら実は何十分の一の労力で済むほど楽だったのだ。

下表は12年4月にまとめた時系列の対応ダイジェスト。3/27(日)の「首都圏約3,400店の中食を3便体制から2便体制に減便」と言った辺りが対応の白眉。ストコン検証に1週間欲しいと言うメンバーを「現状を1週間放置出来ない、たとえ失敗してでもやる。すべての責任は取る」と説き伏せ、「一発勝負の繰り返し」が始まった。
「誤爆」も一度有ったが戦時中につきどうかご勘弁を。

4/8(金)開始で準備が整っていた中食供給再開は前日夜の地震で棚上げになった。
もしこの地震の時刻がずれていたなら、来なかったなら、もう少し早く東北店舗へ中食商品が入り始めただろう。
みなの挫折を誘うまさに大きな一撃だった..


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東日本大震災時系列対応ダイジェスト
イベント
対応等
3/11(金)
1446
震災発生

1715
対策会議初回
①通信不通店舗数 972
3/12(土)
600

同 642店舗
1000
②商品供給拠点損壊により、東北6県+新潟県店舗のオンライン発注を停止。商品供給を送り込みに切替え
3/14(月)

現場からの報告
東北沿岸部22店舗が全壊または水没
いわき営業所管轄31店舗退避により完全閉鎖
郡山営業所管轄5店舗完全閉鎖
茨城県・千葉県で完全・一時閉鎖約30
この時点での非営業店舗数は上記+αで約90
(数時間~数日間程度の一時閉鎖店を除く)
③首都圏で「計画停電」始まる
3/20(日)
3/24(木)


東北第2Dを新潟へ移転
池袋からの人的支援第一陣出発
3/27(日)
1000
首都圏中食減便
④東海以北の首都圏約3,400店の中食を3便体制から2便体制に減便
3/31(木)

BB未通残4
長期休業店以外のBB回線未通店舗(NTT工事待ち)は4店舗。内3店舗はINS回線で営業。
この時点の長期休業店は、
全壊・水没=36店、
原発立ち入り禁止地区=8店の、
44店舗
4/7(木)
2332
東北最大余震
⑤新潟県を含む東北7件で瞬間最大300万戸が停電
4/8からの中食供給回復計画が一旦棚上げになる
4/14(木)~5/8(日)
1000
⑥東北地区オンライン発注を温度帯(供給センター)ごとに順次再開
5/19(木)
1000
1500
⑦日本全国新3便化
(米飯3便 10時締め当日配送→15時締め翌配に変更)
6/26(日)

復興店舗
⑧福島県川俣町仮設住宅建設地に出店
最終的な長期休業店(営業再開不能)は、全壊・水没=36店、原発立ち入り禁止地区=8店の、計44店舗 (上表3/31時点が最終)
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① 一時的にしろ1千店舗近くが急に視界から消えたと言う恐ろしさはなかなか分かるまい
② 発注地区10と12をぶった切った。秋田や新潟の健常地域も含まれてしまったが工場が10と12に有るんだから当時は仕方ない。今後は小回りの利く運転をしたいもの
③ 輪番停電などと余計な事を..(電力不足はこのあと真夏まで続き、毎朝冷房が効かない通勤電車に乗るはめになる)
④ 一発勝負の連続で痺れに痺れた減便対応
⑤ つうこんのいちげき!
⑥ 商品からっけつのお店が棚を埋めようと発注すれば新店と同じことになる。この「回復時のもの凄い量の発注」には要注意。順次回復する方法を考えなければならない
⑦ なし崩し的に勝ち取った
⑧ 川俣町は軍鶏(シャモ)が旨い
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  •  多方面に渡ってきちんと対応した3.11戦後処理だったが、汚点を残したとすれば店舗会計をきちんとやり切れなかったことだ
  •  そんなこんなで我々を強くしてくれた3.11。DR訓練も3.11以降年2回に固定して10回を迎えた。 5年と言う歳月は振り返るには丁度良い時期。
    見直して備えよう、次の災害に!
(了)

3.11に寄せて

5年前の3.11。午前中に部会を終えて昼飯を喰い、今週の仕事もあとわずか数時間。上司は仙台の店長集会へ行っていて不在、その他の部長もリテールテックへの外出者がほとんどで、静かな、のんびりした金曜日だった。
急変したのは14:46。

サンシャインビル26Fは大いに揺れ、机につかまらなければ歩けないほどになった。窓ガラスが割れるのが怖くて少し離れ、蛍光灯が落ちて来ても大丈夫なように真下を避けた。本部員がみなめいめいに机の下に隠れるのを見て安心して仁王立ちを続けた。こう言う時はどっしり構えるのが良いと思って仁王立ちしていた。ヘルメットの位置も確認した。念のためドアを開けさせた。
生命の危機も少し感じていたが、しっかりと落ち着いていた。

ふと振り向いて外を見ると、向かいの16F建てのビルが左右に大きく揺れていた。こんなに大きなビルが揺れるのを初めて見たが、後刻、揺れていたのはサンシャインビルの方だったとわかる。
地上を見下ろすと沢山の人がビルから地上に降りてサンシャインビルを見上げていた。きっとグルングルンと大きく揺れていたんだろう。
何分も揺れは続き、収まった後はギシギシと大きな船のように揺れ続けた。廊下に出てみると柱がこすり合ってカーペットの上に粉を吹いていた。

とりあえず27F総合企画部に行くと仙台へ行っていなかったK常務が居られ、当面の陣頭指揮を取ってくれることになった。まず今日17:15、次は明朝7時に対策会議を行う、と決まった。
帰るわけには行かないが、家族の安否確認には時間が掛かりやきもきした。数名の部員を指名し、帰宅せず残るよう指示した。
やがてテレビに津波の映像が流れ始めた。CGじゃない本物の津波の恐ろしさをまじまじと見た。

全マネジャーを2601会議室へ集めて、①徒歩で帰れる者は帰す ②交通機関の情報を把握し、安全に帰れる者は帰す と、独断で決めて指示した。
最大40名は残りそうだと目星を付け、2万円渡して全額食い物と飲み物を買って来るよう指示した。買い出し部隊はエレベータが止まったサンシャインビルの階段を26F降り、再び重たい荷物を持ちながら26Fまで階段で登って来ると言う殊勲者たちだった。2601会議室に苦労して買って来てくれた食い物と飲み物を並べる。

まだ3月、冬である。外は既に暗くなった。
もう一度マネジャーを集めて、①暗くなったので帰らず朝を待つことを基本とする ②女性は、マネジャーが送るか、家族などが迎えに来ない限り帰さない を指示した。
女性用に暖房が利く部屋を、と思ってPOS部屋を調べたが残念ながら冷房だけしか無かった。
女性には申し訳ないがプライバシー空間も何もないままオフィスで一夜を過ごして貰った。

テレビで津波の映像が繰り返し流れる。津波は水のはずなのに燃えながら流れているものも有る。製油所か何かが燃えている。地獄絵図以外に、 肝心な現地からの情報なんてものは何も入って来ない。
余震も続く。
14:46、震度7の本震の後から翌朝7時までの間に震度5弱以上の余震が何と17回も有った。何故か12日未明の3連発は震源地が長野県北部だった。17回の中には震度6強が2回、震度6弱も2回含まれていた。
サンシャインビルは一晩中揺れ続けた。深夜に部長机でウトウトするとすぐに揺れで起こされた。悶々としながら長い夜を過ごした。

3/12(土)朝7時の会議。一発目の報告書は以下の内容だった。 

3.11-1

 
過日走った国道6号線1F付近の惨状は以前のまま。
津波被害が酷かった南相馬では朽ちた家や壊れた車はまだそこかしこに残っていた。
津波の怖さを伝える為に、後世に引き継ぐのは動画しかない。
どこに避難していれば生き延びる可能性が有ったのか、辛いのも我慢して見て、その中から学ぶしかないのだ

2016年3月6日日曜日

3.11 間もなく5年

サンシャイン60ビル26Fでも生命の危険を感じたあの大地震から間もなく5年。
この間に仙石線はつながり石巻線の終点女川駅は高台へ移って運転を再開し、常磐線は少し延び、常磐自動車道も国道6号線も通れるようになった。
しかし違和感がある。
それは津波そのもので生活を失った被災者たちと、津波起因にしろ危険なものを運転していて世界最大級のメルトダウン事故を起こした1F(福島第一原発)のせいで生活を失った被災者たちとは違うと言うことだ。
富岡町〜大熊町〜双葉町から浪江町へ至る国道6号線は2014年に通行制限を解除したが、未だに両側にはバリケードが続き、帰還困難区域となり町自体が放棄された異様な光景が連なる。
15年12月には、バリケードの中に有った双葉町の飾り「原子力 明るい未来のエネルギー」看板も撤去された。
原子力安全神話はもろくも崩れ去ったが、なお一層悲劇的なのは1Fの現状について、1Fを取り巻く町と人の今後について、1Fの廃炉の進み具合について、なにひとつ易しい説明がされないと言うことだ。
このことは東京電力のホームページを見るとよく分かる。一応「状況について(日報)」などとしおらしく書いているが、

  • たくさん書いておけば面倒がって全部読むまい
  • すべて情報開示した風にしておけば世論を黙らせられる。
  • 仕方なく専門用語で情報開示しているので、意味がわからないならそれは読む側が悪い

見え見えである。
廃炉には30年も40年も掛かると聞く。
その間、民衆を愚弄し続けるのか。やがて世代が変われば世論は変わると思っているのか。
確かに完全復興は次世代に託される。もしかすると3.11には生まれていなかった世代が中心になるかも知れない。

  • 2011.3.11にフクイチで本当は何が起きたのか
  • 日本は世界の中で何を失ったのか
  • 政府や東電は幾つ嘘をついたのか、騙したのか

こっぴどいしっぺ返しを喰うのは、近い将来のニッポンである。
この5年間の、真っ当な振り返りを政府と国民はきちんとすべきであろう

看板だけが残って店は無くなってしまった。看板だけが見事に綺麗なまま立っていた
(帰還困難区域では無い南相馬市小高区 2016.3.5)