2016年7月9日土曜日

西表島奇譚(3)

6/18(土)

昨日の朝の下見で長老から教わったピナイサーラの滝。何だか毎日滝ばっかだが西表島には海とジャングルと滝しか無いのである。
干潮時刻は昼過ぎ。
よって11時頃に潮の引いた河口を渡りマングローブ林へ突入、更にジャングルを突破すれば恐らく目的の滝に着いて潮が満ちるまでに戻って来られる。ま、そんな呑気な作戦を描いた。
歩き出した我々のずっと先にひと筋落ちているのがピナイサーラの滝。直線で歩けばさほどの距離は無いように、歩き始めた時は見えたんだが
潮の引いたヒナイ川の河口の浜をピタピタと進み、途中膝丈の渡河で川の向こう岸には難なく着いた。そこからが難儀だった。ぬかるみに足を取られ沈み始める。やがて足が抜けなくなった大野隊員がワタシモウダメデスと呻いて脱落。足を抜こうと奮戦する大野隊員を置き去りに、マングローブ林の中を、巨大なカワニナに顔を近づけつつ、腰をかがめて進むがやがて立ち行かなくなって退却。
大野隊員のところへ戻ると既に泥からは抜け出て、仁王立ちしていた。
一旦退却。
今一度、もう少し広そうなところから富岡隊員が単独チャレンジを試みるがものの1分で敗退。
河口に目を移すと、シベリア抑留難民のような列がぞろぞろと何やら川の上流へ向かっている。もしやピナイサーラの滝に向かう一行かと後を付いて行って尋ねると、一行は研究者の集団で、滝まで歩いて登るとのこと。
こりゃラッキー!と言う事で目印のブイが付いている入口の木に釣り竿を置き、水と昼飯を持って研究者集団の前に入らせて貰う。
道中ところどころ道は解りにくいが、ピンクのテープを目印に進めば大丈夫。少し遠回りをしたものの「滝でうまい水を汲んで昼飯!」を目標に歩き始めた。
(続く)

【参考】
ピナイサーラの滝への道の情報 - 沖縄離島ドットコム


2016年7月8日金曜日

西表島奇譚(2)

6/17(金)続き

ジャングルクルーズから帰った我々は夕方からの釣りを目指して釣り仕掛けの準備に余念が無い。
いつのまにか那覇からやって来た奴隷ふたり(M型エンジンとT型エンジン。ちなみにエンジンとはゴムボート用人力エンジンの事を指す)は買い出しなどの雑用の間に仕掛けを作る。
狙いは我々には馴染みの薄い「タマン」だと言う。見るとぶっ込み仕掛けを作っている。
船浦港の堤防にはキャスティング出来る浜も有り堤防は内外とも釣りになりそうでなかなか良い。
タマンには、沖縄F3の連中は燃えるものが有った。
同じキャンプ場のキャンパー、風来坊2人組が70cmは有ろうかと言うタマンを上げて共用冷蔵庫に入れくさった。それを見てF3に火がついた。「今の内にこの魚を持って写真撮るか」という風に火がついた。火はもう少し違う方向に点けてもらいたいものである。

長老タクシー乗車組と徒歩組に別れて船浦港へ。
非タマン組の我々は中通しオモリにキツネ針、イカ餌でミーバイ狙い。
腐るほどあたるがあっという間に根に引き込まれる。それでも何とか2匹上げて味噌汁の出汁用に。御大は良型タマンを上げる。
夜釣りまで粘る奴隷ふたりを置いて順次テン場へ帰還。
御大はタマンのマース煮(これは無条件に旨かった!)、
ミーバイ出汁にアオサと油揚げの味噌汁、
マース煮のツユに八重山そばの麺を投入。
ウィスキー白州はほぼ空になり、西表島の夜は今日も更けゆく
右が御大の上げたタマンのマース煮。絶品
(続く)

2016年6月19日日曜日

JOI-X 20周年記念大会@西表島奇譚(1)

JOI(June Of Islands、6月の島)は今年でジャスト20年。遡れば1996年の三宅島がスタートだ。
その後三宅島「雄山」の2000年の噴火を機に式根島が主戦場となり、昨年は奄美遠距離遠征にシフト。そして記念すべき今年の第10回大会は(小笠原とともに)東洋のガラパゴスと言われる「西表島」遠征に決まった。
東京発組は最大5名だったところ残念ながら2人の都合が付かず、3人になった。沖縄F3(エフキューブ)からは4人の計7人。キャンプ地は上原港に近い、ミトレアキャンプ場に決まった。
石垣発西表島上原港行きフネはひとり2,060円、往復割引有り、直行で4〜50分、鳩間島経由だと1時間強。
さて今年の珍道中、果たしてどうなりますか‥

写真はここに!
ここにも!


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2016年6月16日(木)
アウェーのANA羽田空港カウンターに持ち込んだ石垣島行きスーツケースは32kg。隊装備を持っているから減らしに減らしてもこれが限界だった。大きさも超過で自動預け機では預けられない。
ホームのJALなら+20kgオーケーのところだが融通利かず、仕方なく4kg分を機内持ち込みサブバッグに移し28kgにして、超過料金2,500円を支払って積む(30kgオーバーだと+1,000円)。
ラウンジを使えず、B1のFMでバドワイザーを買って下々の民と共に飲む。搭乗時刻ギリギリに富岡隊員が登場。同じ飛行機で石垣島へ向かう。大野隊員は別便で先行だ。

機窓から与論島、伊江島、伊良部島、多良間島を観ながら石垣島へ。
石垣島空港到着後は離島ターミナル直行バスに乗車。540円、所要時間は30分。ここで先発買い出し組と合流予定である
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昨年の奄美以上の非日常を、きっと西表島なら味わえるだろう。だがしかし、南西度とジャングル度が増す分、更に厳しいキャンプになるに違いない…
例によって構想半年滞在4日の島キャンプ、今年の作戦会議(会議名: Lerche(レルヒ))は某月某日ひばりヶ丘の居酒屋および五反田のタイ料理屋で厳かにもキッチリと行われた。
今回初参加となり既に石垣島往復チケットを入手していたL社E嬢は運悪く某プロジェクトメンバーにアサインされて仕事が忙しくなり、行けなくなりそうな雰囲気が漂って来た。やがて奄美の海女ジンちゃんがリタイヤを表明。さらに後日E嬢も正式リタイヤとなって、東京発5名は3名にシュリンクされたが、それでも前を向き視線はキッチリと南西諸島方面を捉えていた

石垣島だと厳しいが西表島でなら南十字星が観える。以前読んだ記事がずっと気になっていた。西表島はサンゴの隆起でなく火山性の山で、いわば海岸線しか平坦な場所は無いようだから、きっと南十字星の観える場所は南に開けた高い丘の上、そう言うところへ晴れた晩に行かなければ観えないだろうと考えた。
そうなると難問は、夜酒を飲まずに運転する輩が居るか?と言うことになる。
これには解が無い。
取り急ぎiPadにステラHDアプリを入れて、後は現地で考える事にした。

結論から先に書いてしまうと南十字星4個のバッテンの内、左上の1個だけ、キャンプ場から観えた。
敗因は満月前日の月が明る過ぎたことに尽きる。全天球晴れの最終日の晩。全くもって残念であった..


買い出し組は石垣事務所の奴隷も駆使して、大量の食い物飲み物を石垣島港離島ターミナルへ運び込んだ。まだ物足らず買い足しに行く。そのスキに箱詰めを整えヒモを掛けて、いつ帰って来ても良いように船着場近くに積んだ。
結局16:10発のフネには間に合わず、17:30発鳩間島経由の最終のフネで西表島へ渡った。フネのデッキの荷物置き場をほぼ我々の荷物で占領した。

ほぼデッキを占領した。大型スーツケースと映っているダンボールはすべて我が隊のものだ

今回タクシードライバーをかって出てくれた沖縄のロバート・デ・ニーロこと足立長老は買い出しを當間御大と大野ちゃんに任せて、レンタカーを借りるために一足早く大原港へ渡っていた。
石垣島からフネが着く港は2つ有って、南部に大原港、北部に上原港。キャンプ場は上原港にほど近いが、レンタカーの都合で長老は大原港へ。大原港から上原港までクルマで1h掛かるから難儀である。

そんな長老タクシーに上原港へ迎えに来て貰った我々は港から早速キャンプ場へ。
西表島ミトレアキャンプ場は、昨年の奄美大島ドレンキャンプ場に負けず劣らず素晴らしい。清潔なトイレに洗面所、24h無料の温水シャワー!
炊事場の流しも使い勝手良いし常設の据え置き型テントには扇風機付き、共用の冷蔵庫も有って文句の付けようが無い。そして何と言ってもハンモック。暑さを凌ぐには外で寝るのが最高だ。
ウミガメが産卵するプライベートビーチを有した点のみドレンキャンプ場に軍配。
ミトレアキャンプ場から海(船浦港)までは徒歩5分だ。

翌日那覇の奴隷も加わって概ね定位置が形成された。ひなたは暑いから必然的にここにいるのが一番多くなる
キャンプ場でひと息つくまでも無く御大は雛鳥の丸焼きに取り掛かる。重たかろうが何だろうが、この為にダッヂオーブンを運んで来ているんだからさすがである。
鶏には下ごしらえが施して有って、お腹にはピラフも詰まっている。炭を熾しガスコンロでメシを炊きカレーも作る。ボリューム満点の若鶏だけでも腹一杯になる。かなりくたびれていたtanaka隊長は宴会途中で抜け出し、扇風機付き固定テントで撃沈、久々の爆睡。

ダッヂオーブンで焼いた、當間御大による丸焼き若鶏。お見事!
本格的アクティビティは翌朝からである。
例によって暑いので早起きして、良く冷えたビールを飲んで、残っていたカレーを中心の朝食。
浦内川クルーズを始め、ゴムボートをどこから出せるのか、釣り餌は何が良いのか、その他アクティビティに関する諸々の情報が圧倒的に不足していた。食卓の片付けを女子に任せ、長老タクシーで下見に出る。
釣り場はキャンプ場を下ったところにある船浦港で何とかなりそうだった。
釣り道具屋はやる気の無い店が1軒有るのみだが、最低限の仕掛けと餌は手に入る。釣り人のほとんどは渡船で出るから、釣具屋の需要は少ないのだろう。
浦内川は浦内川観光と言う会社によって自分の川のように専有されている川で、トレッキング、ジャングルクルーズ、マリユドゥの滝見物もみな浦内川観光の船着場からで無いと行けない。従業員は西表に遊びに来てそのままはまった居候たちばかりの様子だ。
ともかくも一旦キャンプ場へ戻ると、女子たちは暇を持て余して「帰りが遅い」と怒っていた。
協議の結果、今日のプランは以下のように決まった。
  • 長老タクシーで乗り場まで送ってもらい、10時半発の浦内川ジャングルクルーズ船に乗船して、上の船着場からマリユドゥの滝経由カンピレーの滝トレッキング
  • 長老はクルーズ船には乗らず、那覇から来る奴隷たちを港でピックアップして釣り場へ運ぶ
  • クルーズ船が下の船着場に戻って来たらまた長老タクシーにピックアップしてもらって、キャンプ場、夕方から船浦港で釣り
残りご飯に若鶏の残りを細かくしたものを混ぜて握って、まるで炊き込みご飯のようになって美味そうなおにぎりを持って出かける。

ジャングルへ向けて出発!
浦内川は西表島の中央にある標高312mの桑木山付近を源流とする流程18.8kmの沖縄県内最長の川。船着場(≒河口)から約8kmの軍艦岩まで満潮時に海水が遡り、ここがクルーズ船の終着地点。ここから山道を2kmほど歩くとマリユドゥの滝、そこから15分でカンピレーの滝。この山道は、途中から島を横断する長大なエコツアーのコースになる。横断エコツアーは許可を得ての入山が必要だ。
フネはヒルギ(マングローブ)やサキシマスオウノキ、昔この川沿いに有ったと言う稲葉集落のことなど、船頭の軽妙な説明を聞きながらちょうど30分で軍艦岩に到着。
時刻は11時、迎えのフネは2時間後の13時。もう既に携帯は圏外だから行動はそれなりに慎重に。健脚當間御大はハイピッチで山道をズンズン進む。女子3人+tanaka隊長はマイペース。トンボ採りの学者おじさん、オーストラリア人家族、女子旅ふたり組が一緒に下船。
やがてマリユドゥの滝。
事故が有ったとかで、滝のそばまでは降りられず展望台からの鑑賞のみ。ジャングルの景観。
直径120mほどの丸い滝壺(淀)を持つので丸淀→マルヨド→マリユドゥと言う単純な命名。南西諸島の果てのジャングルの滝としてはもっとロマンチックな命名理由が欲しいところ。この滝の250m上流にカンピレーの滝がある
上流のカンピレーの滝はマリユドゥの滝とは打って変わって拓けたナメ滝風。ここで昼メシのおにぎりを喰って引き返す。12:40船着場に戻る。フネに着くと船頭が泳いでいた。我らが自称人魚のトミーも泳ぎ出す。中洲では沢山の蝶々が水を飲んでいる。人魚が上陸して蝶々も驚いたことだろう
船頭によると汽水域で暮らす海水魚はここまで上がって来る。淡水性のボラが4種類もいる。岩の上流を見れば泳ぐのはユゴイ。汽水域に棲息するスズキ目の魚。まったく生態系のおかしな川である。
(続く)

2016年3月11日金曜日

天皇陛下「国民が心を一つに寄り添って」 おことば全文

天皇陛下「国民が心を一つに寄り添って」 おことば全文

東日本大震災5周年追悼式
 東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
 5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。
 このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。
 地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。
 こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。
 あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。
 困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
 日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。
 今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

3.11によせて-2

被災地対応のはずが、週が明けた3/14(月)からは全く別の問題に切り替わった。
「東電計画停電(輪番停電)問題」で有る。これにより大震災対応は東北の600店舗から関東圏3,400店舗にまで波及・拡大してしまった。

3.11は津波被害と原発被害(東電問題)の2つに分けて考えなければならない。

即ち双葉町と陸前高田市の被災内容と復興方針はまるで異なる。
我々の3.11戦後処理が大変だったのも、被災地対応のみで無く、首都圏店舗も巻き込まれたことに他ならない。被災地対応だけなら実は何十分の一の労力で済むほど楽だったのだ。

下表は12年4月にまとめた時系列の対応ダイジェスト。3/27(日)の「首都圏約3,400店の中食を3便体制から2便体制に減便」と言った辺りが対応の白眉。ストコン検証に1週間欲しいと言うメンバーを「現状を1週間放置出来ない、たとえ失敗してでもやる。すべての責任は取る」と説き伏せ、「一発勝負の繰り返し」が始まった。
「誤爆」も一度有ったが戦時中につきどうかご勘弁を。

4/8(金)開始で準備が整っていた中食供給再開は前日夜の地震で棚上げになった。
もしこの地震の時刻がずれていたなら、来なかったなら、もう少し早く東北店舗へ中食商品が入り始めただろう。
みなの挫折を誘うまさに大きな一撃だった..


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東日本大震災時系列対応ダイジェスト
イベント
対応等
3/11(金)
1446
震災発生

1715
対策会議初回
①通信不通店舗数 972
3/12(土)
600

同 642店舗
1000
②商品供給拠点損壊により、東北6県+新潟県店舗のオンライン発注を停止。商品供給を送り込みに切替え
3/14(月)

現場からの報告
東北沿岸部22店舗が全壊または水没
いわき営業所管轄31店舗退避により完全閉鎖
郡山営業所管轄5店舗完全閉鎖
茨城県・千葉県で完全・一時閉鎖約30
この時点での非営業店舗数は上記+αで約90
(数時間~数日間程度の一時閉鎖店を除く)
③首都圏で「計画停電」始まる
3/20(日)
3/24(木)


東北第2Dを新潟へ移転
池袋からの人的支援第一陣出発
3/27(日)
1000
首都圏中食減便
④東海以北の首都圏約3,400店の中食を3便体制から2便体制に減便
3/31(木)

BB未通残4
長期休業店以外のBB回線未通店舗(NTT工事待ち)は4店舗。内3店舗はINS回線で営業。
この時点の長期休業店は、
全壊・水没=36店、
原発立ち入り禁止地区=8店の、
44店舗
4/7(木)
2332
東北最大余震
⑤新潟県を含む東北7件で瞬間最大300万戸が停電
4/8からの中食供給回復計画が一旦棚上げになる
4/14(木)~5/8(日)
1000
⑥東北地区オンライン発注を温度帯(供給センター)ごとに順次再開
5/19(木)
1000
1500
⑦日本全国新3便化
(米飯3便 10時締め当日配送→15時締め翌配に変更)
6/26(日)

復興店舗
⑧福島県川俣町仮設住宅建設地に出店
最終的な長期休業店(営業再開不能)は、全壊・水没=36店、原発立ち入り禁止地区=8店の、計44店舗 (上表3/31時点が最終)
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① 一時的にしろ1千店舗近くが急に視界から消えたと言う恐ろしさはなかなか分かるまい
② 発注地区10と12をぶった切った。秋田や新潟の健常地域も含まれてしまったが工場が10と12に有るんだから当時は仕方ない。今後は小回りの利く運転をしたいもの
③ 輪番停電などと余計な事を..(電力不足はこのあと真夏まで続き、毎朝冷房が効かない通勤電車に乗るはめになる)
④ 一発勝負の連続で痺れに痺れた減便対応
⑤ つうこんのいちげき!
⑥ 商品からっけつのお店が棚を埋めようと発注すれば新店と同じことになる。この「回復時のもの凄い量の発注」には要注意。順次回復する方法を考えなければならない
⑦ なし崩し的に勝ち取った
⑧ 川俣町は軍鶏(シャモ)が旨い
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  •  多方面に渡ってきちんと対応した3.11戦後処理だったが、汚点を残したとすれば店舗会計をきちんとやり切れなかったことだ
  •  そんなこんなで我々を強くしてくれた3.11。DR訓練も3.11以降年2回に固定して10回を迎えた。 5年と言う歳月は振り返るには丁度良い時期。
    見直して備えよう、次の災害に!
(了)